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2017.03.13up

岡潔講演録(25)


「情を語る」

【4】 仏教の真我、孔子の仁

 仏教でよく真我が人であると云います。真我って云ったら心ですが、2つの真我は合一して1つにすることが出来るから、2つとも云える、1つとも云える。それで不一不二だって云うんですが、真情、2つの真情は合一して1つにすることが出来ます。その時、情の内容である情緒が違っていても、不思議に合一さすことが出来る。合一させると、相手の情の内容である情緒がよくわかる。こんなふうに出来ます。しかし、心のうち知や意の部分まで合一さすことが出来るかというと、こういうことは決して出来ない。知や意は合一さすって、出来ないことです。まあ、それはそれくらいにしましょう。

 それで、孔子の云う「仁」とは何かと云うと「真情」のことですね。で、「善」とは何かということを云った人が、私が最初じゃないかと思う。これは、日本人は云わないけれども知ってはいた。

 それくらい情を自分だと思わない。日本人以外は情を自分だと思っていないらしい。東洋人はどう思っているかというと、心は情、知、意と続きますが、この情知意と続いてる心を自分だと思ってるらしい。仏教もそうだし、中国もそうです。そして知情意のうちで知が中心だと云っていますが、これも仏教もそうだし、中国もそうです。ともかく東洋は心を自分だと思ってる。

(※解説4)

 仏教の「真我」も孔子の「仁」もともに「真情」のことだと岡はいっている。

 「真我」とか「仁」とかいうとそれぞれの教義の根本理念であるが、そういう風に表現するとそれらは宗教的、文学的表現にならざるを得ないのである。しかし、「真情」というと心を知情意と別けた理学的表現になるのであって、岡は「心の世界」に人類で初めて科学性を導入したといっても過言ではないのである。

 更にいえばこの「真情」は、今までの宗教のようないわゆる「宗教臭さ」が全くないのである。概して宗教は文字通り「大袈裟」な儀式や、細かい教義の形式をやかましくいう形式主義、権威主義であり、他方「自我」を必要以上に抑圧する難行苦行の要素が多分にあるのだが、それらは岡にいわせれば「知と意」の不純物の要素の結果であり、「真情」にはそういった「宗教臭さ」が全くないのが特徴である。つまり岡によって発見された「真情」によって、20世紀までの宗教が遂に完成するといってもよいのである。

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