「情を語る」
【4】 仏教の真我、孔子の仁
仏教でよく真我が人であると云います。真我って云ったら心ですが、2つの真我は合一して1つにすることが出来るから、2つとも云える、1つとも云える。それで不一不二だって云うんですが、真情、2つの真情は合一して1つにすることが出来ます。その時、情の内容である情緒が違っていても、不思議に合一さすことが出来る。合一させると、相手の情の内容である情緒がよくわかる。こんなふうに出来ます。しかし、心のうち知や意の部分まで合一さすことが出来るかというと、こういうことは決して出来ない。知や意は合一さすって、出来ないことです。まあ、それはそれくらいにしましょう。
それで、孔子の云う「仁」とは何かと云うと「真情」のことですね。で、「善」とは何かということを云った人が、私が最初じゃないかと思う。これは、日本人は云わないけれども知ってはいた。
それくらい情を自分だと思わない。日本人以外は情を自分だと思っていないらしい。東洋人はどう思っているかというと、心は情、知、意と続きますが、この情知意と続いてる心を自分だと思ってるらしい。仏教もそうだし、中国もそうです。そして知情意のうちで知が中心だと云っていますが、これも仏教もそうだし、中国もそうです。ともかく東洋は心を自分だと思ってる。
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