(※解説7)
儒教については「怪力乱神を語らず」といって、いわゆる「オカルト」を嫌い現実主義である。その反面形式主義、権威主義に陥りがちで、岡は「忠」という原理が働く戦国時代を連想して「権謀術数に行ってしまう」というのではないだろうか。
仏教については「呪い」とか「祟り」を持ち出して人の弱みを握る、儒教とは反対に「オカルト」へ行ってしまいがちである。人は得てしてその「オカルト」に興味をそそられやすいのだが、そこはまだ「第2の心」でも入口のところであって真の「心の世界」、つまり岡の説く第10識「真情の世界」には程遠いのである。
その「オカルトの世界」であるが、その世界を強いていえば第8識「アラヤ識」である。ここは目に見える肉体はないが、前世の経験や個性があるところで、神霊学や超能力の世界である。岡は1971年の質疑応答でこういっている。
(質問) 魂というのは、特殊な能力を持った人に見えるのですか。
(岡) 天眼で見えます。そんなに高い能力ではありません。あれは極く低いものです。
(質問) 透視というのがありますね。
(岡) 天眼です。ああいう動物的能力を喜ぶ癖が人間にある。それが迷信をはびこらせる。困ったことです。
岡は明言はしていないが、天眼とは第8識(アラヤ識)の眼といってもよいのではないかと私は思う。
猶、仏教は五眼()といって低い方から、肉眼()、天眼()、慧眼()、法眼()、仏眼()とあるのだが、天眼というと肉眼の次の位の眼ということである。一般に超能力の眼としてもてはやされているものは、ほとんどが「天眼」であると岡はいいたげである。
最後に仁徳天皇であるが、仁徳天皇は中国から初めて文化を取り入れた応神天皇の子であり、民のかまどから煙が上がっていないのを知ると、租税を免除し自らも質素な生活に甘んじたとされる人徳の高い天皇である。
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