okakiyoshi-800i.jpeg
ohono-041s.jpeg
2013.7.27up

岡潔講演録(7)


「岡の大脳生理」

【15】市民大学東京校

(録音テープ) 1974年5月9日

 自分がおってテレビを見るんです。ここに至って初めてテレビはある。あると云う意味は認識されたと云う意味です。認識されないけれどもあるったらナンセンスでしょう。だから自分は認識の主体でしょう。ところが自分は認識の主体だと云った人は今往古来、私1人。誰も云ってない。云ってなくっても何かになってれば、何になってるか云いますが。さあ、こんなんだから全然信じられやせん。

 信じられやせんが、滅びそうになるのは当然なんです。これっくらい何も知らないのに皆知ってると思ってる。それだけならいいが、だから偉いと思ってる。それだけならいいが、だから何をしても勝手だと思って、まーあ無茶な所まで行った。思い切り勝手なことばかりやってる。そりゃ滅びますよ。

 認識の主体ならね、この体で云いますとね、視覚中枢(後頭葉)に居るんです。ところが、東洋では「知が大事、知が大事」って云ってるでしょう。知を主体にしますとね、これは観念。観念の主体ならね、頭頂葉に居る。西洋人のは大脳前頭葉だから、自我でしょう。自我って云ったらマナ識と云って、これは後で云いますが、第7識、体に閉じ込められてある心。そのマナ識の主人公が自我です。西洋人は自我が自分だと思っている。その位置は大脳前頭葉。

 それで西洋人は前頭葉にあると思い、東洋人は頭頂葉に中心があると思い、そして私が初めて、それどっちでも合わん。調べて行ったら視覚中枢に自分がある。それが間違ってんだから、もう一斎間違っている。で、視覚中枢に自分があるのを認識と云う。それから頭頂葉に自分があるのを観念体系と云ってる、東洋人はそうだから。

 それまだいいんです。前頭葉に自分がある。これ後にお話しますがね、大脳前頭葉と云う目で見るんです。で、その目を使って見るのが視覚中枢。ところが人が目で見るのに、目が見るんだと西洋人は思ってんですね。それで目の上へ(自我)がドカッと座り込んだ、何にも見えやせん。見える訳がない、どいてくれなきゃ。

 だから西洋人のは全く無茶なんです。全く無茶なんだけど、前頭葉を使うと云うことは教えてくれてある。西洋から学んだのはそのこと。無茶は無茶だけど前頭葉を使ってる。東洋のように観念で押されたらどう仕様もない。水掛け論です。信じるか信じないか、どちらかより実際仕様がない。

 それから大事だと思って、念を入れようと思って、確かめようと思ったって、観念は確かめようがない。で、確かめ方は遡って、これは釈尊から出てるから確かだと、まあこんな確かめ方やってんのね。

 

(※解説20)

 皆さんはここを読んで、何となく深い神秘感を感じはしませんか。ここはもう既に、我々には「肯定も否定も」できない世界ではないでしょうか。

 実はこの時期を最後に、岡の大脳生理についての言及はなくなるのです。だから、これが岡の大脳生理の最終的な結論といってもよく、側頭葉から始まった岡の大脳生理の壮大な探求の旅も、この後頭葉で終着点という訳です。

 さて、この岡の最終の大脳生理を語るには、私の心の構造図を使うとわかりやすいのです。その三角形の図を左へ90度倒せば、それで良いのです。そうすると岡の大脳機能の構造図とほぼ同じものができ上がります。真理とは誠に単純なもので、ここにきて初めて岡の心の構造図と大脳機能の構造図とが見事に融合した訳です。

 ところで、岡がいうように真の「認識」は情がするのです。「流体」である情が対象物を包み込み、対象物になり切ることによって対象物を知るからです。

 ところが我々は有史以来、東洋の影響を受けて「知」が根本だという先入観の中に長い間住みつづけてきました。岡の「情の哲学」がわかりづらいという人は、古くからあるその観念が邪魔をしているのです。

 しかし、「知」は数学でいえば「公式」みたいなものでして、その「公式」を使って問題を解くのですが、それでも何とか解答は出るのです。だから岡はそれを「知は観念だ」といったのです。

 一方、「あれ、おかしいな?」と思うのが「情」の働きです。答えがわかっていないのに、そう思うというのは誠に不思議ですが、いったん答えがわかってしまえば、それが「知」ということです。だから「情」が根本で、「知」は結果(形式)です。東洋の特徴である「観念体系」とは、その「知」をあくまでも尊重するということで、真の「認識」からは程遠いといわざるを得ないのです。

 だから、いざ自分が釈尊や孔子など先人の「知」に頼らずに、物事を本当に認識しようと思えば「知」では不十分で、日本人の特徴である「情の眼」がどうしても必要となってくるのです。人類がこれから何百年、何千年と進歩をつづけ、新しい文化を創造していくためにもそれは必要なのであって、人類に先駆けて、その先頭を突き進んだのが数学者岡潔なのです。

(※解説21)

 最後になりますが、これまでをもう一度整理しますと、側頭葉のうちでも右側頭葉が記憶や機械的判断を司るコンピュータールーム、左側頭葉が主に言語を司るコンピュータールームという、いずれも「機械の座」と思えば良いでしょうか。

 そして、このところ脳科学者の注目を集めている前頭葉が「自我意識の座」であって、ここには感情、意欲、理性という「第1の心」が働いているのです。また、内面の心と外界という内外二面からの映像を映すスクリーンもここにありますし、自制をうながす「抑止力」もここに働いているのです。

 次に「第2の心」の領域である頭頂葉が、神秘的東洋思想の源である「知的観念体系の座」ということであり、最後に残った後頭葉が日本の心の住家である「情的認識中枢の座」ということになって、岡にいわせれば日本人の「心の眼」は本来非常によく見えるということなのです。

 だから、日本人はそのことに自信と誇りをもって、真に独創的で存在感のある世界観を自らの「情の眼」によって造り上げていくことが、この完全に行き詰まってしまった時代においては最大の世界貢献になると、私はそう思うのです。

Back


岡潔講演録(7)topへ


岡潔講演録 topへ