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2013.06.15up

岡潔講演録(6)


「歌で読みとく日本歴史」
第1部 「明治文学者の心」岡潔著

【2】万葉集

 おのづから寂しくもあるかゆふぐれて雲は大きく谿に沈 みぬ

 茂吉の歌ですが、これは言葉使いは万葉でも、しかし、 調子がどこやら万葉じゃありません。

  うち靡く春来たるらし山の際の
  遠き木末の咲きゆく見れば

  おのづから寂しくもあるかゆふぐれて
  雲は大きく谿に沈みぬ

 こう比べてみるとどこやら違います。どこが違うのかと 思ってよく聴いてみますと、茂吉の歌は自他対立している。万葉の歌は決して自他対立してい ない。それが即ち、自分の喜びになっているのです。

  たまきはる宇智(うち)の大野(おおぬ)に馬並 (な)めて
  朝踏ますらむその草深野(くさふかぬ)

 自分が馬に乗ってパーッと走る。と、それが即ち心の表 れだということになります。ですから自分はここにあって、というのではありません。それが 茂吉の場合は、自分と物とはあっちとこっちにあって自他対立しているのです。茂吉は医者 だったから、よけいそうなるのでしょう。自他対立しますから、どうしても淋しく調子が弱く なってしまいます。ですから、こんなのはとれない。あと石川啄木ということになるけれど、 啄木になるとますます悲しみの色が濃くなる。

(※解説3)

 岡先生の日本古典への研鑽の歴史は、先ず芭蕉にはじま る。それはフランス留学の時(30才頃)、「日本にあって西洋にはない、何か非常に大切な ものは何であるか?」を捜すことであった。

 次に道元禅師の「正法眼蔵」は40才前頃から10年近 く座右に置き、最後は道元禅師本人に時空を越えて対面し、その刹那をもって「正法眼蔵」が すらすらわかるようになったと言っている。丁度、終戦の頃である。

 その次がこの「万葉集」であるが、岡潔著「日本民族」 (1968年)の中の「万葉集」の章にこんな風に書いてある。

 「私は斎藤茂吉の『万葉秀歌』を開けてみた。巻頭に 『たまきはる宇智の大野…』の歌が出ている。私は一見してまったく驚嘆した。なるほど万葉 集と いうのは人類の宝庫である。」
万葉の歌を一見して即座にこう言い切れるとは、何という直観力だろう。日本民族の中核中の 中核である岡潔だからこそ、こういうことが易々と言えるのだろう。

 ともあれ、これによると岡先生が万葉集に本腰を入れは じめたのは、仏教から古神道に移行する60才台も後半であることが推測される。ご遺族のお 話によると、当時は岡先生の机がわりの「せんべい蒲団」の枕元には、万葉集や古事記など日 本の古典といわれるものが、まことに無雑作に散らばっていたということである。

 そして最晩年の70才台は、日本民族30万年の歴史が 詰まっていると岡自身がいう、幽遠な「古事記」の世界へと入っていくのである。

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