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2013.01.20 up |
岡潔の生涯と思想(2) 2011年9月4日 於: 大阪市天満橋
数学者 岡潔思想研究会 横山 賢二
岡との出会い私、本当に素人ですので、このような所には似合いませんが、先ず私と岡潔の関係からお話したいと思います。私が18才の時ですが、岡が高知に講演に来まして、友人に引っぱられて行きまして、初めて聞いた訳ですけれども、その時にこんな思想があったかと、斬新だなあという風に思った。それが第一の印象でした。 その当時、岡は仏教というものを中心に、いろいろと世界観なり人間観なりを考えていたんですが、その仏教理論というのが他の人ではちょっと言ってないような仏教理論。だから斬新だなあという印象があったんです。後に岡もいってますとうり、仏教というものは一見古臭いようではあるけれども、仏教という信仰の面と、もう一つは仏教哲学とその二面がある。で、岡としてはその信仰もそうですが、哲学の方、仏教哲学によって、これからの人類の未来を考えていこうじゃないかという発想で、その頃はもう60才代でしたけれども、考えていたようです。 私はそういう風な一般の仏教というのはほとんど勉強してなかったですが、こんな仏教があったかということでビックリしまして、そこで、やはり岡の本を、当時は随分と出版されておりましたので、読みはじめた訳です。まあ、それが岡との出合いということでした。
晩年の全体像岡は生まれたのは1901年、丁度区切りがいい年ですが、1901年に生まれまして、60才の時に文化勲章を受章する訳です。 それまでは数学の分野では相当業績はあったんですが、余り一般には知られてなくて、文化勲章を受けてやっと一般の人に知られるようになった。ところが岡は奇人変人の最たるものでして、色んな逸話が残っておりますが、その奇人振りが当時の社会に受け入れられまして、随分とジャーナリズムで取り上げられました。まあ、そんな所から岡は有名になって行った訳ですが、一方の岡の側からしますと、このままでは日本が危い、こんな有様で日本がズーッと行ったとしたら、近い将来必ず破綻が来る。 これはもう直観的にわかったことだと思いますね。だから、それを何とかして分りやすい言葉で以って皆さんに説明したいということで、随分と苦労したようです。で、その苦心、努力というのを随分晩年まで続けまして、結局60才に文化勲章を受けて78才に亡くなるんですが、その間に如何に自分の直観というものを表現すれば皆さんにわかって頂けるだろうかということで、非常に苦心をしまして一歩一歩階段を上るように相当な境地まで晩年は行ってしまいます。 これはちょっと皆さんには想像がつかん位のスケールだと思います。だから私は岡の思想の全体像というものを富士山になぞらえまして、やはり数学者で理学系の人ですから、非常にその理論というものがハッキリしている。丸で富士の峰を連想するような、ああいう風な富士のシルエットを描いているという風に私は兼々思っている訳です。
岡の教育論じゃあ、このプリントの方を見て頂きましょうか。プリントの中に二枚重ねのコピーがありますが、「岡潔先生の晩年」という。
これがまあ私が描いている岡の晩年でして、簡単に書いてありますが、文化勲章受章というところ。で、春宵十話というのは処女作でありまして、これは結構売れまして相当なベストセラーになりました。で、その頃は大体、大脳生理と教育論ということが岡のテーマでして、その教育論、これから日本を建て直すにはやはり教育だ。しかし、その当時の教育というのがメチャクチャだという風に岡はいっています。 いわゆる当時の進歩主義者の考える教育論、ゆとり教育だとか何だとかいう風なことで、全然人というものの心の構造を見ていない。ただ知識を詰め込めばいいということもありますし、それから自分達の生活のために組合運動をする人もおったと思いますが、本来教育とは先生と生徒との心のつながり、それが大事である。知識は二の次だ。そういうのを安岡正篤先生は「師道」という風にいったと思うんです。そういう言葉を借りまして随分説いた訳ですが、その師道が大事だと心のつながりに注目している。 だから吉田松陰の松下村塾、このやり方を日本の教育に取り入れなければいけないということで、西洋流の教育は知識を増やすだけの教育であって、やはり人間形成、これを先ずやらなきゃいけない。しかし、その本当の人間というものが分ってないんだと、そういう風なことを言いまして、随分教育に対して批判する訳です。
ところがそれがサッパリ通じない。当時、坂田道太文部大臣と言う方がおりましたが、彼と非常に懇意になりまして、是非教育の素案を岡さん送ってくれということで懇願されまして、岡はその時に「教育の原理」という、これは教育論の集大成ですが、この本を、本というかこれは長文の書簡ですが後に本になりました。これを坂田文部大臣に送りまして、教育をこういう風に建て直してくれとやるんですが、一向、それがどういう風な結果になったかというのは杳として分からない。こんな状態で全く理解されないままでズーっと来た訳です。 今日もまだ教育論の中で、岡の教育論は存在しないと思いますが、この岡の教育論というのは、私が学んだ限りでは、人の心の構造がどういう風に発展していくかということを、もう本当に精密に残してあります。人の心がどう発展するかがかわからなくて、教育ができる訳がないと私は思うんですね。実際、ないと思うんですよ。だから、もう一度教育というものを考え直さなきゃいけない、人間観から。 しかし、西洋の人間観は浅い人間観でして、東洋の人間観というものを折りまぜて、そして西洋と融合しながら人間観というものを確立していかない限り、本当の人間観というものは生まれて来ない。それを岡はやった訳ですね。だから岡の教育論にそれは書いてあります。
岡の大脳生理それともう一つが大脳生理。今、茂木健一郎さんとか、東北大学の教授の川島隆太さん、まああの人達はまだまともなことを言っていますけども、だけど今の流行の脳ブームの本を読むと支離滅裂と私は思うんですね。で、何か人が跳びつきそうなことだけしか書いてない。 大脳生理を書いているかと思ったら、全然書いてない場合もある。ただ思いつきで、受けをねらってやってる。これがほとんどじゃないかと思うんです。だけど、そんなものじゃない。今の大脳生理は袋小路に入っていって、突破口は見つからないという状態が今の大脳生理じゃないかと私は思います。
で、岡も当然そういう風に言うと思うんです。というのは、岡の大脳生理とは相当なひらきがありますから。東洋の思想から立ち上げた人間観というものを今の大脳生理学者は全然持っていませんから、人間というものが違う訳ですね。それプラス大脳の色んな働きというものが、それと対応する訳ですよね。 その大脳の理論と人間観とが対応していく訳ですが、岡の場合には美事に対応した人間観と大脳生理というものが残されている訳です。それも是非、私は脳科学の分野で生かしてもらいたいと思ってるんですが、仲々そこまで注目してくれる人は少ない。
大脳前頭葉の見直しやっと最近ですね、大脳前頭葉、これが大事だという風に言いはじめました。それまでは右脳左脳理論ということを随分と言いまして、30年位はその理論で来たと思いますが、最近その理論が陰をひそめまして、茂木さんなんかは大脳前頭葉が大事だ、前頭葉には編集能力がある、つまり物事の位置付けですね。ただの記憶の集積ではなくて、位置付けをするのが大脳前頭葉だという風な発想をする人もおりますし、それから川島さんなんかは抑止力、つまり、これをやっちゃいけないという事をやらないようにするというのは、前頭葉に抑止力がある。これが道徳につながる訳ですが、この抑止力があるということも大脳生理学では言いはじめました。
右脳左脳理論の誤謬ところがこの理論はですね、今から4、50年前、東京大学の時実利彦先生という大脳生理学者、これは当時の大脳生理学の権威でしたが、この方が大脳前頭葉中心の理論を主張していた訳です。 ところが、途中からアメリカの影響を受けて右脳左脳理論に変わりまして、感性と理性、これに変わりまして、それだけで大脳生理を押し通した訳です。ところが、それがどうもおかしいということになって、最近また前頭葉が大事だということになって来たということなんです。現に、今のまともな先端の脳科学者というのは大脳前頭葉理論を持っていますが、彼らはその時実利彦の教え子の世代なんです。だから、本当の大脳生理の専門家というのは大脳前頭葉理論をズーッと持ちつづけて来たんですが、皮相な人間観しか持たないが発想のユニークな人達が右脳左脳理論で大脳全体を説明しようということで突走った。で、それだけじゃどうも説明がつかんから元へ戻って来たと、こういう風なことじゃないかと思います。
だから、岡は既に4、50年前、時実利彦先生と意見を交換して大脳前頭葉中心の理論を組み上げて、しかもそこからドンドンドンドン大脳の全体像を探ろうということで、これを自分一人でやって行った訳です。だから途中から時実先生の方が岡に助言を求める。「岡先生、あなたは随分と人間観というものを深めていらっしゃいますが、この大脳生理の現象とその人間観とどういう風に対応しますか」と、随分と質問をするようになる。当時の大脳生理の権威のまだ上を行くような理論をドンドンドンドン先へ探っていったというのが岡なんです。因に、この二人の対談は二つの対談録となって残っております。
岡の研究態度それができたというのはやはり、数学を40年ズーッとやって、数学的頭をどうやって使うかということをつぶさに分っているから、そういうことができたのです。大脳前頭葉を如何に使うかということを、岡は自分を実験材料としながら深めていったという訳なんです。だから是非、岡の脳理論、これをもう一度皆さんに勉強して頂けたらなというのが私の考えなんです。
まあ、そういうことで文化勲章を受けてから当分の間は教育論、そして大脳生理が如何なるものかという全体像-まあまだここでは全体像は出ていません。前頭葉中心だということだけですが、それでも今の脳科学からすれば随分の進歩だという風に思います。まあ、そういうことで晩年初期は出版も沢山しまして、教育に警鐘を鳴らし、大脳生理も相当究明しというところまで行った訳です。 これが1960年から65年。いえ実際は、この期間は「教育の原理」が書かれる1968年頃まで延長されるんですが、この10年近い間、これは短いですけれども、岡の一年というのは、人の100年、200年に相当すると思います。それくらいの集中力でやったから、世の人は岡を奇人変人だと言ったんだと私は思っているんです。それぐらいの大天才じゃないと、とてもこんな大脳生理の理論一つ構築するのも無理じゃないかと思うんです。
胃潰瘍での吐血そこで教育に警鐘を鳴らすのですが、それが一向効を奏さない。そして、当時の国語審議会、これがありまして日本の国語を潰そうじゃないかという発想から会をやったようです。つまり日本語をローマ字にしようかとかカタカナにしようかとか、こういう風なことで一部やった節がありまして、岡はそれを聞きまして嚇怒します。
こんなことをやられては日本の子供は木の又から生まれたようになる。焚書坑儒に匹敵する、焚書坑儒以上のものだと嚇怒しまして、文部省になぐり込みをかける訳です。ところがどうにも余り相手にされません。 それで、その帰りの汽車の中で「月影」という本を構想して奈良に帰り、一気に原稿を書き上げ、数通手紙を書き、その後吐血して倒れる訳です。
つまり、犬の間脳にキリを刺しますと、胃から血液が噴き出すという実験があるようです。私はそれと同じことをやったんだ、つまり自分の胃へキリを刺すようなことをやったんだという風なことを言ってます。もう大出血で、20何人かの奈良女子大の教え子に輸血で助けてもらいまして、命は助かったんです。これが「胃潰瘍の吐血」ということです。如何に危機感を持ったかです。それからもう40年以上になりますが、相変わらず日本は呑気なものです。危機感で吐血するような人はいないと思います。もう少し我々は岡に学んで、考え直して行かなきゃならないのではないかと思います。
人間の建設その後ですね、胃潰瘍をした後はですね、ちょっと放心状態になりまして、半年ぐらいは頭が働かなかったようです。けれども、そこに「人間の建設」小林秀雄と書いてありますが、胃潰瘍の前に小林秀雄と対談しました。それが最近、文庫本になりまして出版されています。これは安い本ですし、プレゼントするにも持って来いの本です。だけども、この中に語られている小林秀雄と岡潔の対談というものは、今日ではとてもあるような代物ではありません。
やはり、科学、学問、文学、芸術、その根本が如何なるものかということを二人で語り合った、今でもちょっとない本です。今から4、50年前ですか、世紀の対談だと思います。これはもう永遠の対談ではないか。岡にこれほど自然科学の分野で意見を吐かせたという小林も素晴らしいと思います。とてもこれほど岡に本気になって自然科学や数学の分野に関して意見を吐かした、そんな人は一人もいなかった。小林秀雄はそれをしてくれた訳です。今、山折哲雄さんあたりが随分この本の中の「自然科学の限界」という所を取り上げてくれまして、本とか講演とかで言及してくれております。山折さんにも随分と印象が強かったのではないかと思います。で、人間の建設のあと吐血しまして、本が出来るのはその後なんですが、それがベストセラーになりまして、当時の知識人のバイブルという風ですね、人間の建設。
岡の本の出版状況ところで、岡の本の出版については、2000年までは岡の本は一冊もなかったんです。絶版になっていました。で、我々の悲願はとにかく一冊でも出版したいと思ってましたが、そういう要望もなければ、岡家の積極的な働きかけもなかったものですから、一冊も本が出ないまま2000年まで来たんです。
ところが2001年に、これは期せずして21世紀の初頭に当りますが、本が出はじめました。その後、一年に一冊のペースで出まして、今では10冊を越えます。ただ、ベストセラーになるほどではないのですが、堅実に売れています。その中では復刻版がほとんどで、我々が希望する晩年未発表のものは出ていません。だけども、それだけでも相当な、我々が考え直すきっかけにしてくれる内容だと思いますので、是非皆さん読んで頂いて、まあ考えるヒントにして頂けたらと思うんです。
小我と真我で、それから吐血をしてから、少し趣が変わってきまして、教育論から今度は日本民族、心の構造、西洋文明の批判、日本への警鐘、こういう風な方向に関心が移ってきます。数学者がそちらの方向へ行く訳です。 で、この時期に私、丁度岡の講演を聞いた訳です。そうすると仏教が出てくる訳です。で、仏教でいってる小我と真我という言葉を岡は使いまして、まあ簡単に言いますと、小我というのは自己中心の心である。真我というのは無私の心である。で、人はこの二重構造になっている。
先程、浜田さんがおっしゃいました無明という言葉。無とは「ない」、明は「あかるい」と書く。いわば、「明るくない」ということですよね。「むめい」なんですけど、仏教は宗音ですから「むみょう」という読み方をするんですね。で、小我とうのは無明で穢されたのが小我なんです。人は本来真我なんですが、ところが無明(本能とか欲望)とかで穢されると小我になる。この違いがある。
で、私は非常に分りやすかったですが、この小我と真我は。このあと、それだけでは済まなくって、ドンドンドンドン人の心の構造というのが精密に深く掘り下げられていく訳です。だけど、その出発点というのが小我、真我ということです。これは安岡正篤さんも小我、真我という言葉を使ってたんじゃないかと思いますし、他の仏教でも使ってるところがあるかも知れませんが、この小我、真我という二つの概念にわけて人を説明するということは、こんなシンプルな説明の仕方は余り聞いたことがない。
問題を追い詰める手法まあ仏教と言いましても、岡の仏教というものは終戦後、光明主義という仏教を本格的に実践研究しはじめる訳です。 終戦後ですから1945年、それからここが1965年ですから、20年位は仏教を随分研究して、その世界で考える訳です。その最後に出てきたのが小我、真我という言葉。だから相当、岡もいろいろと頭を巡らして煮詰めていった、その結果の小我、真我という言葉でして、だから当然一般の仏教者が思いつくような概念じゃないんじゃないかと私は思いますね。
岡は追い詰めて追い詰めて、そしてシンプルな言葉をパーンと出す。そして、そこを突破するとまた追い詰めて追い詰めていって、シンプルな言葉をパーンと出すという、これはまあ数学の発見と同じことなんです。非常にシンプルな公式を見つけ出すというやり方をズーッと幾重にも繰り返しています。ここから先もドンドンドンドン探って行くのです。
日本への警鐘まあ、そういうことで仏教を随分勉強し、仏教理論で説明するんです。そしてこの時期、1968年、この頃には日本への警鐘がピークに達しまして、何かといえば日本の滅亡が危い。これは、人類の滅亡とイクオールである。日本が立ち上がらなければ、人類の滅亡を救うものはいないのだと、こういう考えです。だから単純な平和主義者の言っているような発想ではないんですね。単純な平和主義者と言いますと、人類がうまくやっていくには皆んな今までの考え方を改めて、仲良くなりましょうよというのが平和になる方向だというんだけど、現実の世界はそんな甘いものではない。そうじゃなくて、日本民族が先ず日本の心を自覚し、立ち上がらないと人類の滅亡は防ぎきれないと、こういう構図です。
「葦牙よ萌えあがれ」の復刻丁度その頃ですが、講演を沢山しまして、1968年頃の講演を一つにまとめたものが「葦牙よ萌えあがれ」という本になりまして、当時出版されました。この10月にはその本が「日本民族の危機」というタイトルで復刻されます。これは講演集ですが、「教育の原理」という先程の岡の教育論の最終的なもの、これも入っておりますし、それから私が若い頃、何度も何度も繰り返して読んだ「真我への目覚め」というのも入ってますし、それからあと長崎大学、京都大学、信州大学、ここで講演した三つの色とりどりの講演が入っています。是非皆さん、もうすぐ出ると思いますから、お買いになって頂きたいと思います。
胡蘭成との親交あと10分くらいですか。仲々、もうちょっと端折らないと…。それでですね、小我と真我のところは終わりました。で、胡蘭成という、これは中国の大哲学者。この人と晩年親交を結びまして、それまでは安岡正篤さんあたりに東洋思想の要点は教えてもらっていたのですが、本場の中国哲学を教えてもらう訳です。そこで大体、東洋思想というのはどういうものかということが、最終的に手の平に乗るように分ってくる。東洋思想が手の平に乗るのです。その前に西洋思想というものが、数学とか科学とか西洋哲学という方面から、手の平に乗るように分ってくる。だから、一言でいえるようになる。そういう風に岡は物事を簡素化するという方向で考えていきました。追い詰めていく訳です。で、胡蘭成に本場の東洋哲学を学びまして、その結果どうも東洋と日本とは根本的に違うのだという考えが生まれてきます。大体今、東洋と西洋との比較というのはありますが、東洋と日本とは根本的に違うという所まで掘り下げた人は少ないのではないかと思います。ところが岡はそこを見ます。で、その辺から東洋の仏教から神道へ移って行く。書いてありますね、「胡蘭成、仏教から神道へ」。
第一の心、第二の心で、神道というか古神道。明治以後の国家神道ではなくて、純粋な古への神道が日本本来の心である。その辺から第一の心、第二の心という表現をするようになります。第一の心とは浅い心、第二の心とは深い心。その二つの方向へ持って行きます。小我と真我というのと似ておりますが、だけど小我と真我というのは仏教の言葉を使ったんですが、仏教を離脱しましたから岡独自の発想で第一の心、第二の心。で、仏教も第二の心を扱っている、東洋思想も第二の心を扱っている。無意識、無私、共通の心がある。第一の心というのは西洋文明の心、つまり心理学で言いますと自我。どうしても自我意識が入りますし、自己中心になる。西洋の政治、経済その他、全て自己中心の理論で組み上げられてないものはありません。だから株式や為替、その他ディリバティブといわれるものは「自分の損はまっぴらだ」という発想ですが、本来の日本人だったら株式は会社のため人様のためには、自分の損が多少出ても止むを得ないと思うでしょう。で、日本の社会が安定しているのは、そういう発想が根底にある訳ですね。自分のためよりも、お陰様とか世間様とかそういう風な発想がある。これは無私の心であって、第二の心であるとこういう風なことになります。
神々の会で、次に「神々の花園」、これは岡の最後の出版になります。この会が「神々の会」ということで、期せずして同じ「神々」という言葉が出てきまして、私もそれで嬉しくてここへ参った訳です。(笑)仲々、神々というといまだ社会一般ではすんなりとは使えないのが現状ではないかと思いますが、ここでは美事「神々」という言葉をお使いになってますので、私も安心してお話ができる訳です。
ベールに包まれた晩年で、その後ですね、出版が止まります。だから、ここからが岡の思想はベールに包まれる訳です。これが1969年。その後、殁するのが1978年ですから、約10年近い間の思想というものか、一般社会には空白になる。だけどもグラフ、右肩上がりのグラフがありますが、これがまあ私が見た岡の境地の進展の仕方です。で、69年というと三合目という風に書いてあります。72年に五合目と書いてあります。で、既にもう三合目から後というのは全然世の中に知られてない。
私、25年位前に、夜フト目が覚めまして、そして「よし、岡家に行こう」と決意しました。夜、目が覚めて決意した訳です。そうして直ぐに奈良に行きました。遺族の方と話をすると、資料が沢山残っている。研究している方は、直弟子に当る人で極く少数。そういう風な状況だった。これではいかんということで、奈良には何年も通いまして信用を得て、私も資料を土佐へ持ち帰りまして、今ではほぼ全ての資料がある訳ですが、全国に果してどのくらいあるかと言いますと、直弟子に当る人も含めて両手ぐらい、私と同じ年代では全国に二ヶ所ぐらいでしょうか。 だけどその資料というのが、晩年になればなるほど物凄く難しい内容で、この私でも未だに歯が立たんという状況です。そこに五合目と書いてあります。この「真情の発見」というのがありますが、日本の心、真情の発見。ここは既に富士であれば雲に覆われている部分です。だから全く一般には知られてないと思います。しかし、岡が到達した五合目というのは「真情の発見」ということです。私はここが日本人ならばシンプルにわかり、今の時代の転換点には、その転換の原理となる非常に大事なところだと思いますから、これを是非皆さんにお伝えしたいと思ってるんです。
唯識論の概略二枚目をめくって頂いて、これが私が一番言いたいことになります。後のことは省略したいと思いますが、パッと見るとちょっと分かりにくいかも知れませんが、三角形を書いてありましてピラミットがある。えー皆さん、唯識論というのはご存知でしょうか。仏教では唯識論というのがありまして、人の心を層に別かって説明するという理論。これは非常に科学的な心を見るやり方でして、岡も本当に絶讃しております。こんなのが仏教にあったかと言っております。
で、右の高い三角形ですが、それの一番上に、5感という感覚器官、5感がある。眼耳鼻舌身ですね。5感がなければどうなるかと言うと、世の中が存在すると思いますか。5感がなければ、物質というものが存在すると思いますか。これが問題なんです。5感がなければ、物質というものは存在しません。5感があるから物質が分かる訳です。目で目て、触ってわかる。5感がなければ物質はなくなる。そういう風な5感です。
その次に6と書いてあります。これを意識と言います。その5感の基に意識があって、その意識で5感で受けたものを受信している訳です。これは仏教、仲々よく見てると言いますね。これが意識。
その次、7というのがある。第7識というのがありますが、これは仏教でなければ仲々わからない所ですが、マナ識という風に名前がついていまして、これは肉体を構成する心である。この心の上に肉体が生まれる。この7識あるが故に、人の肉体が生まれてくる。で、この肉体の中に意識が生まれて、そして5感が生まれると、こういう順番です。これが一応、現代の我々の考えている人の構造なんです。
フロイトについてで、フロイトが最近、最近でなくて大分前ですか、100年前ですか、無意識ということを言いはじめまして、人には無意識があるという風に言っていますが、あの無意識というのは生まれてから後の記憶を無意識の心の中に貯蔵しているということだと思います。一方、フロイトで一番問題にしている「リビドー」という言葉がありまして、性欲、これが人間の本質である。このリビドーが人間の本質であり、そこから色々な現象が起きてくるという風なことを言いまして、リビドーという言葉を使ってます。 つまり、そのマナ識というのは肉体を構成する要素であって、それは本能、欲望の温床である。まあ本能がなければ肉体を維持できませんよね、食欲、性欲、睡眠欲、集団欲。フロイトはその性欲を一番強いと見て、リビドーが人の本質だと言ったんです。だから、生まれてから後の記憶を無意識といい、性欲が人の本質だということといい、フロイトが無意識といっている心は第7識(マナ識)だということになると思います。
ユングについてそれでそこそこ説明がつくと思うんですが、ところがフロイトの弟子にユングという人がおりまして、そのユングは「集合無意識」ということを言いまして、フロイトのまだ深い所に無意識があるという風に言い出しました。それは最近のことですね、50年位前ですか。その集合無意識というのはですね、いろんな説明の仕方があるんですが、第8識。ここから肉体を離れて、深い心に入っていく訳です。
で、この8識というのは、唯識論の既に設定に入っていまして、8識はある、これも無意識であるという風に言ってます。唯識論のポピュラーなものは、第8識が心の一番根底であると言ってますね。この第8識をアラヤ識と言いますが、アラヤ識というのは生まれる前の過去の経験を全て貯蔵している所。肉体が生まれる前ですね。我々人間が経験してきた何百万年という歴史がここに詰まっている訳です。これが一般に「アガシャック・レコード」と呼ばれるものです。運勢を占うベースになるものです。
だから、中国なんかの易経がここをやってるんだと思いますね。つまり、個人の記憶というのは肉体が生まれてから後ですけども、肉体が生まれる前というのは集合無意識でしょう。で、そういう意味になると思いますね。このユングが言うのが仏教でいうアラヤ識、第8識に当たると思います。こういう風な関連性は、これは私だけじゃなくて、最近ボツボツ言うようになったと思います。
第9識を説く唯識論ところが、仏教の正統的な唯識論というのは、もう一つ下がある。9識があるということを言うんですね。9識というものは、つまりアラヤ識にはまだ個性というものがあります。生まれる前の経験がそれぞれ個人によって違う訳ですから、個性というのが出て来る訳です。人は生まれた時に既になぜいろんな個性が違うのかというと、やはりこのアラヤ識があるから個性が違う訳です。だから8識には目に見えないけれども個性がある。
ところが9識というものは-まあ、仏教というものは「生命哲学」という言葉を使いますが、生き物全て一つの生命体から派生してきたものであるという発想を、仏教は持っている訳ですね。だから「一蓮托生」という言葉もありますが、一つの蓮根から無数の蓮の花が生まれてくる。ここはつまり、「一即多、多即一」と言いまして、一つが多であって多が一つであるという所ですから、それだけの関係しかない訳です。個性というものはありません。だから唯一つの生命体がある訳です。それを我々は別ち与えられて生きてる訳です。で、これが第九識。
岡の真情(10識)の発見これで相当説明がついたと思うんですが、ところが岡が1972年に、それでもまだ本当には説明がつかん、日本民族の心をよくよく調べてみると、まだもう一つ下があると言いはじめます。 これは人類はじまって以来、20世紀最大の発見だと私は思っていますが、これからは「こころ」の時代ですから、人の心の構造が本当はどうなっているのかと言うことを、西洋の科学の精神に習って精密に見て行かなきゃならん時に来ているんです。
私の話もここから佳境に入りますが、残念ながら、ここで録音が切れておりますので、この後は岡潔先生ご本人に登場して頂きます。1972年11月2日 市民大学講座「おはなし」より。
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