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横山賢二 新聞記事


【4】心と憲法

高知新聞 1992年(平成4年)4月16日(木曜日)

 

 憲法の基本は、洋の東西を問わず「人権」である。これは、一応もっともなことのように思われる。しかし、この「人権」とは「自我」に与えられた権利という意味である。

 「自我」の本領は自己主張である。自己主張は時として利己主義に陥る。利己主義は当然、他人に迷惑をかける。一方、迷惑を被った人も同じく「人権」を持っている。その人は、今度は反対に自己主張のお返しをする。こうして「自我」の社会に摩擦が生じ、対立が起こる。

 ここで竹の林を思い浮かべてみる。竹林の竹は一本一本独立した存在である。これが「自我」に相当する。しかし、土の中では、竹の地下茎はすべての竹と一続きにつながっている。これが「真我」である。地上では個々別々でも、地下では一つの共通な存在なのである。人はこういう二重の構造になっている。

 思いやりが大切だ、優しさが欲しいとよく言うが、人が本来別々の存在でしかないのなら、こういうものが必要なはずはない。本来共通な存在であるからこそ、ぜひ必要なのである。

 思いやりや優しさは「自我」より来るものではなく、実は「真我」より来るものである。

 西洋では、この「真我」の自覚が薄いため、共産主義も自由主義もともに、この「自我」を社会の基盤に置いている。完全な個人主義と競争原理がその良い例である。だから、ソ連は、その欠陥を暴露して社会主義体制自体が崩壊したし、アメリカだって社会は内部より自己崩壊しつつあるように見える。

 人は本来、赤の他人ではないという「真我」の基礎から再出発しない限り、真の平和と民主主義は達成されないのではないか。

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