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2018.11.15 up |
真情(まごころ)の発見 数学者 岡 潔 JA経営実務 増刊号2018 こころの協同 p15-26に寄稿 2018年9月
数学者 岡潔思想研究会 横山 賢二
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1.岡の紹介
皆さんは岡潔という数学者をご存じだろうか。生まれは20世紀初頭の1901(明治34)年、今年で没後40年になるのだが、奇人変人のエピソードが多いことから、年配の方ならご存じの方も多いのではないだろうか。
岡は大阪で生まれ、京都帝国大学数学科を卒業後、29才でフランスに留学し当時世界で未解決の3大問題の存在を知り、生涯の目標をその「多変数解析関数論」研究一本にしぼって帰国するのである。
帰国後、広島文理科大学の助教授となるのだが、その問題の解決に集中するあまり、大学で教えていては研究に専念できないと郷里の紀見峠に帰り10年以上の長きにわたって芋畑で数式を書きながら研究に没頭したのである。
その後、経済的に完全に行き詰まった岡は、奈良女子大学に職を得て、数学の研究と学生の教育に力を注ぐことになるのだが、1960年に至って長年の数学への功績が認められついに「文化勲章」を受章し、一躍「時の人」となるのである。この受章を境として希有な世界的数学者として、またもちまえの奇人変人ぶりからマスコミにもてはやされ、いわゆる「日本の知性」として世の注目を一身に集めるのである。
それと同時に、専門の数学ではなく随筆集も出版されはじめ、処女作『春宵十話』がベストセラーとなるなど、次々と一連の出版がつづき、講演の依頼も全国から届くようになり、この辺から岡の軸足は専門の数学から教育問題や心の問題、さらには日本への警鐘を打ち鳴らす警世家へと変貌していくのである。
さて、私が岡に出会ったのは1968年、私が18才の時、岡が高知へ終生一度きりの講演にきた時である。文化勲章を受章して8年が経ち、岡の名声も日本国内に轟いていたが、私はそれを知らずに友人に無理矢理引っぱっていかれ、会場で初めて岡の話を聞いた。
その時の話の内容は、今の私にはおぼろであるが、数学者である岡が仏教の「小我、真我」を持ちだしてきたこと、漱石の「それから」の主人公である三千代と代助の話をしたこと、そしてその頃としては珍しい「情」という言葉を使ったことである。
そして何よりも印象深かったことは、聴衆の反応がにぶいと察した岡が、突然、「これがわからんか!」と怒鳴ったことである。凄い先生もいるものだなあと思ったのであるが、私は何かその時、私自身の目が覚めたような気がしたのである。
実はこの頃を境として、一世を風靡した岡の名声は急速に衰えていくのである。あまりにも岡の思考が先へ先へと先走りし、一般常識どころかその道の専門家でもついて行けなくなるのである。それが証拠に、この翌年の1969年に出版された『曙』『神々の花園』を最後に岡の出版は止まるのである。
しかし、私から見れば岡の本領はこれから後であって、世の中が岡を忘れ去ったあとに思想のピークがきたことは、まことに皮肉なことである。いつの世でも、これが天の摂理というものではないだろうか。
私が今まで活動をつづけてきたのも、岡の出版が止まってからあとの岡の思想の核心を、なんとしてでも世に伝えたいと思うからである。そこには人々が捜しあぐねているこの時代を転換していく原理と、東西文明を遙かに超えた人類の未来のこれからの思想が、図らずも語られているからである。
2.仏教の小我、真我
岡は数学者ではあるが、岡を尊敬するという同じく数学者の藤原正彦が著書『国家の品格』の中で、「真のエリートには条件があります。第1に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった(実用面では)何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけていること。そうした教養を背景として、庶民とは比較にならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること」といっているように、岡は専門の数学ばかりではなく、学問、芸術、宗教を問わず、すべてのことに通暁しているといってもよいのである。
岡は特に「心」を見据えた東洋の仏教に造詣が深く、一般の仏教書にも目を通す一方、30歳台からは道元禅師の「正法眼蔵」を学びはじめ、40歳台からは仏教に西洋の科学精神を持ち込んだ大正時代の高僧、山崎弁栄の「光明主義」を厳しい修行をまじえて研究するのである。そうしたなかで岡が仏教から最終的に抽出してきたのが、さきにも触れた「小我、真我」という概念である。そもそも仏教には膨大な文献があり、その内容も多岐にわたるのであるが、その仏教を究極まで煮詰めるとこの「小我、真我」に行きつくと岡はいうのである。
それでは「小我、真我」とは一体何であろうか。それを端的に言いあらわした言葉が「正法眼蔵」の中にあるという。その言葉とは「仏道を習うとは自己を習うなり、自己を習うとは自己を忘るるなり」というものであって、これを「小我、真我」で言いかえると「仏道を習うとは真我を習うなり、真我を習うとは小我を忘るるなり」となるのである。
それでは「小我」とは具体的にどういうものだろうか。それは主に現代では常識的人間観であって、自分の肉体とそれに宿る心が自分であって、肉体に宿るがゆえにあくまで物事を自己中心的に見る心だというのである。
現代ではよく「自己中」とか「モンスター」とかいう言葉が使われるのであるが、それほど極端ではなくても人は得てして自己中心に「理性、感情、意欲」するものであって、私を含めてほとんどの人はそうであることに日常あまり気がつかないのである。
それでは一方で、西洋にこの「小我、真我」の概念はあるのだろうか。たとえばキリスト教では「原罪」といって、人は本来「罪人」であってキリストの「贖罪(自己犠牲)」にすがるしかないと言っているし、また西洋心理学では細かい分析はあるものの、「自我」とは東洋でいう「真我」ではなく「小我」のことではないだろうか。
私はこの違いが「性善説」「性悪説」の根拠のように思うのであるが、「クール・ジャパン」が声高に叫ばれはじめた昨今よくいわれるように、日本社会は主に「性善説」が、西洋社会は主に「性悪説」が基本であるように思うのである。
実はこの見極めがあるかないかは非常に重要であって、戦後の日本の思想的混乱、社会的混乱、また政治的混乱までもが、この東西の人間観の違いからきていると岡はいうのである。
第1図 小我と真我
つまり、現在の日本社会は潜在的には古来から持ち伝えている性善説の「真我」の世界観がある一方、表面的、意識的には西洋から入ってきた性悪説の「自我」、つまり「小我」の世界観で動くという2重構造になっているため、他国では見られない複雑な様相を呈するようになったと岡は断言するのである。その辺のところを『葦牙3号』1971年より岡の説明をあげてみる。
3.二つの心
さて、この仏教の「小我、真我」のことを岡はその2年後には言葉をかえて「第1の心、第2の心」と言いだすのである。
岡は仏教の世界観をそのまま採用するのではなく、我々が今日住んでいる西洋の世界観に翻訳しなおし、いわば東西の世界観の摺り合わせをしようというのである。これには、まさに藤原正彦のいう「圧倒的な大局観」がいる。
今日の我々は、東西の文化文明をいわばゴチャ混ぜにしているのであって、それを整理統合していくことが求められているのである。つまり東洋と西洋は同じ土俵の文明なのか、はたまたこれから岡が証明していくように別の土俵の文明なのか、これを明確にしないことには人類はこれから先、一歩も進めないのである。
岡は今日の我々へその総合像を人知れず残してくれているが、これこそが真の東西文明の融合というものである。それを試みたのが次に紹介する『一滴の涙』1970年である。
いかがだろうか。これが岡の「二つの心」である。なんとスケールの大きい、なんと簡潔な仮説ではないだろうか。ものが解明されるとは、誰にでもわかるように「簡潔」になっていくということである。これが東洋と西洋の決定的な世界観の違いだと岡はいうのである。 第2図 岡の大脳生理
特に私の印象に残っている言葉は、「西洋人は、ギリシャや欧米の文献をどんなに調べてみても、第1の心以外を知ったと云う痕跡は見当たらない」という箇所であって、これは世界的数学者が残した言葉であることを我々は銘記しなければならない。
我々は、日頃から薄々、西洋と東洋はなにか違うと思っているのであるが、なかなかそれを説明できないのである。我々は、明治以後、水に住む魚が陸上の動物のまねをするような生き方をしているのであって、我々の生存が苦しいのは実はそのためではないだろうか。日本人は、その世界観の違いを、今、再確認しなければならないところに来ているのである。
4.真情の発見
「二つの心」を提唱して3年すると、また岡の世界観が変わってくる。それまでは「二つの心」によって東洋と西洋との対比を考えていたのだが、今度は深い「第2の心」の中での東洋と日本との対比が次第に鮮明となってくるのである。
そのきっかけを得たのは1968年頃出会った中国の思想家の胡蘭成
岡は胡蘭成と対話を重ねるうちに、ある一つのことに気がつくのである。それは胡蘭成が事あるごとに「知が大事だ」「知が大事だ」といったことである。それで岡も「アレッ!」と思うようになる。岡は処女作『春宵十話』以来、「情緒」という言葉をメイン・テーマにしてきたからである。
そこではじめて岡にも東洋と日本との根本的な違いがわかりはじめてきたのである。そういう目で中国の儒教などを調べ直してみると、まさにそれが当てはまるように思うし、岡が長く学んできた仏教でさえ「知」を重視していることがわかってきたのである。
こういうことも藤原正彦のいう「圧倒的な大局観や総合判断力」である。それは一つ一つの言葉を分析し理解するのではなく、いわば仏教や儒教をミキサーにかけてジュースにし、その成分を調べるというやり方なのである。
実はこの「知」と「情」の違いを決定づける要因は、さらに二つあるのである。一つは小林秀雄との対談「人間の建設」の中で岡がいっているのだが、アメリカ人ポール・コーヘンの数学的実験から「知」の根底は「情」であるということがわかってきたことである。
もう一つの要因は、この頃4番目の孫の「始」が生まれてきて、その生い立ちを連続的に観察した結果、仏教や儒教のいっている心の層のさらに奥に、もう一つの未知なる心の層があることがわかってきたことである。
その結果、1972年に発見されたのが「真情の世界」である。「真情」と書いて「こころ」と読めばよいと岡はいっている。
以下、岡の説明を『情と日本人』1972年より抜粋の形でご紹介したい。
5.真情の世界
いかがだっただろうか。これが岡の発見した「真情の世界」である。
ここで「情」ということを私なりにあらためて説明してみたい。一般に「情」というと「感情」のことと即断するかも知れないが、これは西洋から入ってきた言葉であって、全く的を得ていないのである。
というのも「感情」は、いってみれば「自我の情」であって、自分がうれしい、自分が悲しいという風に「自分」というものが入る、いわゆる「喜怒哀楽」なのである。実際、喜怒哀楽の激しい人は困るのである。
しかし、岡のいう「情」は「真情」と名づけているように「無私の情」であって、無私であるがゆえに人の喜びを喜び人の悲しみを悲しむのが「真情」である。だから、その二つはまったく違う。
また一方で、「情」といえば「愛」という言葉が浮かぶのだが、この「愛」も西洋から入ってきたもので、まったく「情」とは別物である。というのも、テレビなどでよく見かける「愛と憎しみのドラマ」のように、「愛」はいつのまにか「憎しみ」に変わり得るのである。
また、「愛」は一人に集中するものであって、分散する「愛」などは浮気心といって価値が認められないし、高価なプレゼントをして相手の意識を刺激しなければ伝わらないものである。
しかし、「情」は違う。昔からよくいわれる親子の情、夫婦の情、師弟の情、友情、そして人情という風に、「情」の存在範囲は拡大していくのである。だから本当の博愛は、「愛」からではなく「情」から生まれるものである。「情」は決して憎しみに変わらないし、相手の意識を刺激して伝わるものでもない。これが日本でいう「情」である。
我々日本人が、万葉の頃では「直き赤き心」といい、その後は「大和魂」といい、現代では「日本の心」といい、直近では「クール・ジャパン」と諸外国からいわれているものは、実はこの情、「真情」であると岡はいうのである。
岡は1965年の小林秀雄との対談「人間の建設」の中で、「人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によって初めに人の心というものをもっと科学しなければいけなかった」といっているが、その7年後にまさにその言葉を自ら現実のものとしたのである。
この「真情の発見」は、心の世界を数学者が理学的に見つめた結果わかってきたことであって、人類史上はじめての非常に科学的な結論なのである。今までのように宗教家や心理学者ではなく、数学者だからこそ発見に成功したといえるのである。
また、岡は世界的数学者であるばかりではなく、いってみれば日本民族の中核といえる人であって、東洋の仏教の「唯識論」で説く心の最奥底、第9識(真如)のさらに奥にこの心、第10識(真情)があることを発見したのである。 第3図 岡の心の構造
これからは「心の時代」であるから、この発見は人類の未来をひらく20世紀最大の発見だと私は思うのであるが、不思議なことに岡に言わせれば、日本人はこの「真情」を普通に持っている人々だというのである。日本に昔からある「まごころ」という言葉がそれである。
まさかと思う人があるかも知れないが、仮にもしそうであるならば、我々日本人は、今までのようにただ西洋社会を真似るのではなく、自らの社会と日常をあらためて見直してみる必要があるのではないだろうか。そうすることによって、必ずや「こころの協同」というテーマにも応えることができるのではないかと私は思うのである。
なお、「真情の世界」についてさらに知識を深めたい方は、ホームページ「数学者岡潔思想研究会」(http://www.okakiyoshi-ken.jp)を参考にしていただきたい。「情と日本人」の全文も掲載している。
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