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2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【4】 行動的と理性的

 戦後に生まれたり、教えられたりした今の人達は、非常に『行動的』です。アメリカの新しい世代も非常に行動的なようだし、欧州に到っては、それまで行動的でなかったんだが、近頃になって非常に行動的になった。

 欧州は以前どんなふうだったかと云いますと、日本の教育は明治以後、欧州の教育を真似たんです。そうするとどんな人が出来たかと云うと ― アメリカの教育を真似ると大体行動的な人が出て来た。欧州の教育を真似てた頃はどんなふうだったかと云うと、『理性的』な人。

 人には理性というものがある。これを一番大事にしなければいけない。理性至上主義ですね。こういう人が非常に多かった。これは間違ったこと、非常にいけないこと。

 それでわたし、アメリカの教育の方がまだしも理性を大事にしないだけましかもしれない、そう思ったんですが。つまり、何か大事なものが理性の代わりにあると云うのではないが、行動的だったら理性を大事にしない。だからましかもしれない。そう思ったんですが。しかしこの行動の本体を明らめなければ、1日1日をどう暮らせばよいかということはわかって来ない。

 理性主義と云うのは、理性を裁判官にすること。これは自我が主人公になることの1つの形式です。非常に悪い。理性は召使でなきゃならん。随分多いですよ。例えば学習院長をしていた漱石の弟子だと云う、安倍能成って、ああ云うのを理性主義と云うんですね。あんな石頭は困る。頭なんか無い方がまし。行動主義ったら頭なんか無いんですからね。石頭よりましかもしれないと思ってる。

(※解説4)

 このことが語られたのは学生運動が盛んなりし頃で、岡はそういう学生を「行動的」といったのだろう。その学生運動の基本理念は当時世界を席巻していた左翼思想なのだが、少なくとも彼等はその左翼思想をいったん疑ってみようとはしていなかった。だから岡にいわせれば「頭なんか使わず」に、ただただ「行動的」だったのである。

 一方、欧州は「理性的」と岡はいうのだが、それについては幼い頃私に1つの記憶がある。それは当時テレビで流行っていた欧州の「スパイ物」である。非常に頭脳明晰な主人公が敵の組織内部にもぐりこみ重要情報を奪ってくるのだが、危機一発のところを素晴らしい頭脳と判断力によってきりぬけ、最後に無事帰還するというストーリーなのである。

 我々にはとてもできる仕業ではないのだが、一方では幼な心に何か非常な違和感を覚えたのである。それを一言でいえば正に「冷徹」であって、「血も涙もない」非常に冷たい世界なのである。こういうのを岡は「理性的」といっているのではないだろうか。

 それではなぜ我々は、その「理性主義」に違和感を覚えるのだろうか。岡は「理性は召使いでなきゃならん」といっている。「理性」は前頭葉の「第1の心」に働いているのだが、「第1の心」の根底は私がいつもいうように「意志の世界」だから、そこに働く「理性」がこんなにも冷たくなるのである。

 それでは「理性」は何の召使いになるべきか。それは「第2の心」の「情の召使い」 にである。そうなって初めて「理性の冷たさ」 が消えるのである。

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