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2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【5】 老子の自然学①

 ところで、西洋人の見ている自然は死んだ自然です。全然生きていない。五感でわかるものだけを調べましたから、五感でわかるものしか見ませんから。そうすると生命現象と云うものはわかりませんから。これは死んだ自然です。

 が、東洋人の見ている自然は生きた自然です。生きた自然であるということは変わりはないんですが、インドと中国と日本によって自然の見方が違う。同じようには見ていない。生きた自然には違いないのですが。『中国』では自然をどう見ているかと云うと、中国はなんて云うか、『()』から『()』に出て、最初の有を『(せい)』と云うんですね。普通我々が無生物と云ってるものもみな生。生物は勿論生ですが無生物も生。自然には無生物などというものは無いと云うんです。

 例えば岩なら岩でも ― 『胡蘭成』という日本に20年程いる中国人がある。汪兆銘政府の法制局長官兼情報局長官をしていた。汪兆銘が死んでその政府が瓦壊した時、蒋介石に捕らえられて殺されそうになった。それで日本へ亡命した。それからずっと日本に居るんですが、筑波山に住んでる。

 ところで、筑波山には山を開拓して梅を植えたりしてますが、それで掘り起こされた岩がゴロゴロしてる。それを胡蘭成さんが見るのに、いかにも不恰好。置き直せるものなら置き直したいと思う。しかし重くて置き直せない。人が手を下すとそんなふうになるのだが、自然にある岩石はみんな良い格好をしている。これが生だ、命が全く無いのではない、こう云うんです。

 無が有になる時、無が有になろうとして上手く成れば生ですね。成り損なうことがある。この成り損なったものが『不安定な素粒子』だって、こう云うんです。しかしここで成り損なえば、また元の無に帰って行く。で、跡を止どめない。そう云うんですね。

(※解説5)

 この「老子の自然学」は、実は胡蘭成がこの時分に「自然学」という本を書いたので、是非岡先生にその序文を書いてもらいたいと岡家に持ち込んだものである。

 その中心テーマがこの「老子の自然学」であるが、岡はそれがよほど気にいったとみえて随所でそれを人に語っている。岡にいわせれば、これこそが東洋の自然観だといいたいのだろう。

 岡の説明はこうである。中国では「空」ではなく「無」というのだが、その「無」に「(そく)」が現れる。「息」とは振動や波動のようなものである。そうすると第1段階として「生」が生まれるというのである。これが石や水や空気など、いわゆる「無生物」のことである。

 老子は「無生物」を「生」というのである。「生」とは「命のあるもの」という意味であるが、これが西洋の自然観とは全く違う東洋の自然観の最大の特徴である。

 そういう目で我々の周辺の自然を眺め直してみると、山々は緑に覆われ風はさわやかに吹き、雲はたなびき水はあたかも踊っている。決して死んだ世界とは見えないではないか。

 それを老子は「生」というのだが、今世界を覆っている西洋思想はその「生」を命をもたない「無生物」というのが慣しである。彼等は本当にそう思っているのだろうか。我々の実感とは随分隔りがあるのだが、これは環境破壊に直結する思想的大問題であると私は思う。

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