「1971年度京都産業大学講義録第5回」
【5】 老子の自然学①
ところで、西洋人の見ている自然は死んだ自然です。全然生きていない。五感でわかるものだけを調べましたから、五感でわかるものしか見ませんから。そうすると生命現象と云うものはわかりませんから。これは死んだ自然です。
が、東洋人の見ている自然は生きた自然です。生きた自然であるということは変わりはないんですが、インドと中国と日本によって自然の見方が違う。同じようには見ていない。生きた自然には違いないのですが。『中国』では自然をどう見ているかと云うと、中国はなんて云うか、『無』から『有()』に出て、最初の有を『生()』と云うんですね。普通我々が無生物と云ってるものもみな生。生物は勿論生ですが無生物も生。自然には無生物などというものは無いと云うんです。
例えば岩なら岩でも ― 『胡蘭成』という日本に20年程いる中国人がある。汪兆銘政府の法制局長官兼情報局長官をしていた。汪兆銘が死んでその政府が瓦壊した時、蒋介石に捕らえられて殺されそうになった。それで日本へ亡命した。それからずっと日本に居るんですが、筑波山に住んでる。
ところで、筑波山には山を開拓して梅を植えたりしてますが、それで掘り起こされた岩がゴロゴロしてる。それを胡蘭成さんが見るのに、いかにも不格好。置き直せるものなら置き直したいと思う。しかし重くて置き直せない。人が手を下すとそんなふうになるのだが、自然にある岩石はみんな良い格好をしている。これが生だ、命が全く無いのではない、こう云うんです。
無が有になる時、無が有になろうとして上手く成れば生ですね。成り損なうことがある。この成り損なったものが『不安定な素粒子』だって、こう云うんです。しかしここで成り損なえば、また元の無に帰って行く。で、跡を止どめない。そう云うんですね。
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