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2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【6】 老子の自然学②

 そして生は次に生物になる。無機物が、無生物が生物になる。生物を『(めい)』と云う。命とは、先ず生になる。生が命になる。生になったままの生は無生物、命が生物。しかし生きた自然だから、自然を死んだものと見てない。だから無生物、生物と云うふうな言葉は使わない。始めから生と云う。その次は命と云うんですね。

 で、自然がわかるとはこの生が良くわかることだ。こういうことですが、生が命になろうとする、そして成り損なうことがこの際起こる。生が命になろうとして成り損なったものはどういうものかと云うと、これが『ビールス』です。

 ビールスはいろいろ種類がありますが、ビールスはこれは生物ではないから、独力で生を営むことは出来ない。しかし他の生物の中にはいって、そこに住んで、独自の行動を起こしてひっかき回すことはできる。癌などと云うものもそのため出来る。

 例えば煙草、煙草という植物、煙草の中に住むビールス、これを取り出すことに西洋人が成功したらしい。煙草のビールスを取り出してみると、これは完全な『結晶体』。だから他の生物を離れれば結晶体、純然たる鉱物、無生物。煙草と云う生物の中に入れると急に独自の行動を始める。こういうのがビールスですね。

 ところが、不安定な素粒子もビールスの成り損ないです。だけど不安定な素粒子は元の無に帰ることが出来る。しかしこの段階を過ぎて次のビールスのところで成り損なうと、元の無生物には帰れない。いつまでもビールスでいるのだ。だからビールスは生物ともつかず無生物ともつかない。自然はみな生きていると云っても、ビールスは例外で生きていないかもしれない。

 こんなふうな話を聞いたんですが、その時わたし、『ビールスが独自の行動』をするでしょう。このビールスに独自の行動をさせているもの、これが仏教で云う、『無明』ではなかろうか、そう思ったんです。

(※解説6)

 「無」が「生」になろうとしてなり損うと、またもとの「無」に帰っていく。これを「不安定な素粒子」と胡蘭成はいう。更に「生」が「命」になろうとしてなり損うと、最早「生」にはもどれなくて「ビールス」になるという。これも流石に胡蘭成のおもしろい指摘である。

 それに関して私の頭に浮ぶのは、進化論等から考えると生物の種類がなぜ今のように多いのかということであるが、ヒントはこの「なり損い」にあるのではないかと思うのである。

 長い進化の歴史では、それぞれの生物が次の段階に進化しようとして、うまく進化できればよいのだが、その進化に失敗すると先にもいけず元にももどれず、その位置で永久に定着する。これが今見る生物の種類の多様さに反映しているのではないかと私は思うのである。

 猶、この進化論に関して岡のおもしろい言葉がある。それは「造化は人と植物を造ろうとした。動物はその失敗作である」と。

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