(※解説9)
岡はここで初めて仏教の真我、小我を持ちだしてきている。仏教は漠然とこういう二極対立を考えているようだが、「仏教はそういえばいいところを、そういわんから人にわかりにくいんだね」と岡がいうように、真我、小我をはっきり提唱している仏教の宗派は以外と少ないように思う。だから、岡がこの構想を持ちだしてきたのは、やはり光明主義からではないだろうか。
西洋では決してこういう別け方はしていない。神道では真我のイメージで「人は神の子」というが、キリスト教、イスラム教では「人は罪の子」である。西洋心理学でいう「自我」とは、岡から見れば仏教の「真我」ではなく「小我」のことである。だから岡が「真我」「小我」と別けたということは実は人類にとって革期的なことであって、これによって東西文明を1つにつなげて西洋心理学に対抗しようとしているのである。
さて、真我(第2の心)を説明しようとすれば、いつものように「植物」を思い出してもらえばよいのである。土の中に地下茎(芋)がある。そこからいくつもの新芽(小我)が地上に出てくる。この地上が目にみえる時間空間の箱である。植物はどんどん成長し、やがて枯れる。
西洋ではすぐ枯れてしまう新芽(小我)を自分と思っているのであるが、仏教では地下茎(真我)が自分だというのである。仮に地下茎が自分だとすれば、ここで岡がいうように「真我は不生不滅」である。
猶、真我、小我の二極対立であるが、そういえば道元禅師に「仏道を習うとは自己を習うなり、自己を習うとは自己を忘るるなり」(正法眼蔵・現成公案)という言葉があって、こちらの方が岡に影響しているのかも知れない。
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