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2017.11.09up

岡潔講演録(28)


「真我への目覚め」

【8】 自分とは何か

 明治までの人は、仏教的自然の中に住んでいると思っていた。それを、今の人は、物質的自然の中に住んでいると思ってます。こう違うと、何が一番大きく変るかといいますと、自分とは何かというところが変る。物質的自然の中に住んでいると、物質が自分だと思います。もっとはっきりいうなら、自分の肉体とその働きとが自分だと思います。今日、大体の日本人はそう思っている。

 また、日本国憲法の前文は、暗々裏に、そんなことはわかり切ったことだというように言っている。無言で言っていること、自然に対するが如しです。肉体に備わっている五感で見えるもの以外はないと勝手に決めてしまって、言わなくてもわかっているだろうと言っているのが物質的自然です。自分というものについてもそうで、個人とは何かということ ― これは自分とは何かということにもってこられるが、その自分とは、自分の肉体だと思っている。それが個人だと思っている。

 こういうように、肉体の働きが自分の心だ、と思うのが西洋の心理学で、それによって教育するなどというのはとんでもない間違いです。仮に、仏教的自然の中に住んでいるのだとすると、何が自分かということになるが、一番はじめにあるものは心です。その心は一面からみれば、一人一人個々別々ですが、その一人一人、個々別々である心が、仏教的自然の中に住んでいるのが自分です。物質的自然の中に住んでいるとすると肉体が自分なのです。ここが、大きく変る。

(※解説8)

 ここで岡は西洋心理学をわかりやすく定義してくれている。西洋では「自分の肉体とその働きとが自分だと思います」といっているが、これは非常にわかりやすい。

 西洋では五感でわからないものはないという物質主義だから、目に見える肉体が自分だと思うのである。その肉体にとじ込められて「心」がある。これを西洋ではマインド(心)というのだが、これは仏教のいう「心」ではない。

 つまり仏教では、「心」は「不一不ニ」であるから、西洋がいうように肉体は別々であるが、人と人とは目では見えない「心」でつながっていて、つながっているからこそ人の「喜びや悲しみ」がじかに自分に伝わるのである、と。

 だから本来、他から完全に独立した「個人」というものはないのであって、この人間観の思い違いが日本国憲法にも戦後教育にも現れているから、岡は声を枯らして「それは間違っている」と警鐘を鳴らすのである。

 さて、岡のいう「西洋心理学のとんでもない間違い」の具体的な例をここで挙げておこう。これは最近インターネット上で偶然見つけた、至ってまじめな「人間存在研究所、心とは何か」という売れ筋のホームページである。

 私から見ればその解説の要点は、「心の要素を知情意で考えたときの不十分さは『欲求』の欠落にあります」というものである。つまり人は理性、感情、意欲だけでは説明しきれず、「欲求」つまり本能や欲望を入れなければ真の人間像は出てこないということだろう。

 「よくぞいってくれた」と私は思うのであるが、しかしこれはそのホームページの思惑とは裏腹に、西洋心理学の限界を如実に物語るものとなっている。それでわかりやすいように、心を層にわけて説明する岡の唯識論と比較してみたい。

 岡のいう第1の心(自我、仏教の小我)は唯識論でいうと第7識のことである。その内訳を浅い方からいうと前5識(五感)、第6識(自我意識)、第7識(マナ識)となるのであって、ここでいう知情意とは第6識(自我意識)に働く知情意のこととなるのである。

 そうするとそのホームページでは人間には本来、本能や欲望が働いている心の層が基礎にあるはずで、それが今までの心理学では欠落していたというのであるが、唯識論では第7識(マナ識)は肉体を維持するために働く心の層というのだから、必然的にここは本能や欲望が働いていることになる。従って、まさにそのホームページでは唯識論の第7識(マナ識)の存在を、改めてここで主張していることになるのである。

 だからこのことによって西洋心理学では、集合無意識といって第8識(アラヤ識)を説くユング心理学を除いて全て第7識(マナ識)、つまり肉体に宿る自我(仏教の小我)のことしか問題にしていないし、ましてや仏教の説く第9識(真如)や岡の発見した第10識(真情)の存在すら知らないから、岡にすれば「とんでもない」といわざるを得ないのである。参照・講演録(10)の13

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