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2014.04.16up

岡潔講演録(10)


「民族の危機」

【13】麦を育てるように (「自我発現の季節」の教育)

昭和44年(1969)1月 - 2月

大阪新聞

 「童心の季節」3カ年が過ぎると、それから小学校へ入るまでの3カ年強が「自我発現の季節」であって、ここで自分というものが段々に出来て行くのである。

 「自我発現の季節」の第1ヵ年では、自我の外郭が出来るのである。時間、空間というものが少しわかるようになる。運動の主体としての自分がわかるようになる。もののわけが少しわかるようになる。これだけを総合すると、理性の始まりが出来るのである。

 これは大脳前頭葉が働き始めたのである。自我発現の季節の第2年になると、感情、意欲の主体としての自分がわかるようになる。これで自分というものが出来たわけである。自我発現の季節の第3年になると、自我が前面の空間に働き始める。その為、子供は自然に興味を持ち、友達に友情を感じるようになる。

 子供を仔細に見ると、自我とは真我と小我との交ったものである。小我を司っているのは大脳前頭葉、真我を司っているのは大脳頭頂葉である。だから「自我発現の季節」には頭のこの2つの部分が形作られて行っているのである。真我は伸ばさなければならないし、小我は伸ばしてはならない。抑止しなければならない。

 大脳前頭葉は大切であるが、大脳頭頂葉の命に従って働くのでなければならない。だから此の頃の教育は丁度麦を育てるようなものである。雑草は抜き捨てなければならないし、麦の芽は間違えて抜いてはならない。

 頭には大脳頭頂葉、大脳前頭葉の外に非常に注目すべき部分に、今一つ大脳側頭葉がある。文字通り頭のてっぺんと、おでこと、よこあたまとである。側頭葉は機械的なことばかりを司る。この季節にここを使わさせ過ぎると、側頭葉ばかりの発育をはかることになって、他の2部分の発育がさまたげられるのである。

(※解説13)

 ここで岡は深層の「第2の心」の上に「自我」が形成されていく課程を描写しているのだが、実際に西洋の教育学はこの辺をどう見ているのだろうかと思って、シュタイナー教育を調べてみて全く驚いた。西洋の中で最も深い人間観に基づくと思われるシュタイナー教育でさえ、「心の成長」の捕え方が時間的に見て岡とは全く違っていたのである。

 シュタイナー教育の人間観では、まず肉体(物質)が生まれて7才までにエーテル体(これを一応「生命」と呼んでいる)が自律し、14才までにアストラル体(感情と印象の主体)が自律し、21才になってはじめて「自我」が自律するとなっている。

 これを見ても一見して、岡とは「心を見る眼」の深さと精密さに格段の違いがあることがおわかりになると思う。特にシュタイナーには3才までの「童心の季節」どころか、7才までの「心の描写」はほとんどないといっても良い。

 この岡の人間観とシュタイナーの人間観との摺り合わせは難しいのだが、岡は3才までの「童心の季節」の中のそれぞれの課程を踏んでのち、3才~6、7才で「自我」が完成されると見ているのに対して、シュタイナーは多分7才のエーテル体(生命)のところで「自我」が芽生えはじめ、21才で「自我」が完成すると見ているのではないだろうか。

 そうするとシュタイナーの人間観には、岡が主張するような3才までの「童心の季節」などは存在せず、生まれてから7年間は「自我の自律」からは程遠い「ただ肉体が生きているだけの未熟な状態」だと思っているのではないだろうか。エーテル体の「生命」とは多分こういう意味であって、西洋で使う「生命」とはただ単に「肉体」を指すのではないだろうか。

 西洋は「自我の世界観」から外に出られないから、「自我の発展」のみが人間観の理想なのである。しかし、東洋や日本は少なくとも「自我」を超越して、「第2の心」を実現するところにその理想があるのであって、「自我の発展」だけでは人類の滅亡は防ぎようがないのである。

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