(※解説14)
ここにも岡先生の信条である「自分を後にし、他を先にせよ」という言葉が出てきた。
枝葉末節は捨てておいて基本だけ考えてみたいのだが、「法治国家」という言葉がある。大概の人は法律を守ることこそが社会に調和と安定をもたらすと考えている節があるが、実はそこに大きな落し穴があると私は思う。
では、なぜ法律を守らなければならないかというと、人々が自分勝手に振舞うからである。そして、それを調整するために法律がいるのである。仮に人々が自分勝手に振舞うことをしなければ、基より法律はいらないはずである。そうすると「法治国家」とは「自己本位」が大前提のシステムだということになる。
そこで問題になることは「法治国家」のなかに長く住んでいると、その大前提の「自己本位」の考え方が知らず知らずのうちに身についてしまい、当の本人には気づかなくなることである。こうして利己主義がいつの間にか社会に蔓延するのである。
それではどうすれば良いか。法律を杓子定規に守ることよりも、岡がいうように「人を先、自分を後」にすれば良いのである。人様に物理的にも精神的にも迷惑をかけないように心掛け、人の立場に立って人の心を汲める人、つまり岡のいう「情の人」になれば良いのである。
そもそも「人が先、自分が後」という前提なくして、その法律でさえもうまく機能するはずはないのであって、その前提を欠いた「法治国家」など、ただギスギスと住みづらいだけである。今日よく耳にする企業の「コンプライアンス」の弊害も、こんなところにあるのである。
今日の我々は「人が先」などという大前提は考えてもみないのだが、この行き詰まった社会を根本から正していくには、この大前提しかないのではないだろうか。しかし、よくよく我々の日常を観察してみれば、昔から既に日本社会はその「人が先」という大前提で動いているように私には見えるのである。これが岡のいう「情の国、日本」である。
猶、最後に岡は「小さな子にピアノや電気オルガンを弾かせることは非常に恐ろしい」といっているが、今であれば「パソコンやケイタイが更に更に恐ろしい!!」と言い直すことだろう。本当に機械文明が「人類の進歩」の終着点なのだろうか?
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