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2017.11.09up

岡潔講演録(28)


「真我への目覚め」

【11】 小我と真我 (2)

 真我と小我のところ、これ非常に大切なところですから、もう少し、要点だけを方向を変えて申しましょう。春が来て桜の花が咲く。この時、もし桜の木の所有権が自分になければ、花を見てもきれいでない、長閑ではないと言う人がいたとしますと、春はその人にとって、どんなに淋しいものでしょう。

 それを、もう一歩進めればよい。人が幸せそうにしているのを見ると、自分の心が喜びで満たされる。自分の心に深い喜びを感じるというのが、人本然の心であって、それがうまくいかないのは、心に濁りがあるからです。この、エゴイズムという濁りがあるからだと知って、それを取り去ることに努める。そういう人は、真我に目覚めた人と思います。相当に濁りを取り去って、親疎の別なく、人が幸せそうにしているのをみると、相当、深い喜びが感じられる。そうなっている人についてみますと、その人にとって、世の中は広々としていて、その人の心は喜びに満たされているでしょう。

 また、花を強く愛する人が、花が折り取られているのを見ると、自分の身がひきちぎられるばかりに感じるように、人が悲しんでいるのを見ると、自分の身がひきちぎられるように感じるでしょう。これが、観音菩薩の心で、これが、真我です。心を自分と思う。但し、その心は非常に大きな心であって、肉体の機能が起こすような、肉体に閉じ込められている小さな心ではない。真我が自分だと思えるようになると、肉体が死ねばそれきりなどとは思わない。心は1つに合わさります。

(※解説11)

 真我と小我は仏教の知識であると岡はいうのだが、真我とはその仏教の中でも相当に高い悟りの位であって、滅多にそういう人はいないというように一般に考えられているのかも知れない。しかし、岡にいわせれば割と日常的で身近かな存在だというのである。

 その両者の基本的な違いはなにかというと、要は心の状態が「自が先」か「他が先」かということになるらしい。これを不等式で表わすと、自>他、他>自ということになる。つまり小我の心の状態は自>他であり、真我の心の状態は他>自ということである。

 それをもっと具体的にいうと小我は「他に厳しく、自に甘い」ということであり、真我は逆に「自に厳しく、他に優しい」ということになるのである。今でこそどちらが正しいかは一目瞭然とは思うのだが、戦後はアメリカ文化の氾濫で小我の価値観で生きる人が少なくなかったのも事実である。

 現在はエゴイズムで凝り固まった無自覚のいわゆる「モンスター」が巷に増えているとよく耳にするし、その逆に強制的な道徳には反対する人も多いようだから、要は「他を先にしなさい」と心の基本姿勢さえ教えれば全ては解決するのではないかと思うのである。

 猶、真我の内面的な実感であるが、それは岡のいうように「身を引きちぎられる」ということになると思う。この「身をひきちぎられる」ということについて、私にはながく心に残る1つの経験がある。

 もう20年以上も前のことであるが、鏡村という近くの山間の村を自転車で走っていた時のことである。小便をしようと近くの山道に入っていった時、「クン、クン、クン」と小犬の鳴く声が聞こえてくるのである。よく見ると小さな小犬が山に捨てられたとみえて、私に助けを求めて近寄ってくるのである。

 小犬には既にハエがたかりはじめていて捨てておくと危いのだが、私にはとても犬を飼うことはできないのである。余程なんとかしようとも思ったのだが、現実を考えると涙を飲むしかなかったのである。私はこの時ばかりはまさに「身をひきちぎられる」思いがした。今もその小犬の「目差し」と「クン、クン、クン」と鳴く声を思い出すといたたまれない気持ちがするのである。

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