「岡潔先生と語る 」(2)- 西洋文明の限界 -
【9】 人に作れるものは無い
(男性)今まで何も無いところから新しい一つのものをみんなが協力して作っていこうという行動をとった場合に、やっぱり意識というものが中心になるのと違いますか。
(岡)西洋人はすぐ作る作るって云うんですね。日本人はその真似をして、教育なんかに対しても、人間形成と云うんですが、みな間違い。総ては心が生み出すんです。人に作れるものなんか何もありません。
(男性)と云うことは、みんなが集まって一つの行動をとって生み出すということ・・・
(岡)ええ。
(男性)矢張りその中心になるのは意識ではありませんか。
(岡)それは西洋かぶれですな。間違いです。
(男性)一つの行動をとる時に、中心的な指導性というものが・・・
(岡)その指導性なんていう言葉が西洋の言葉ですね。第一の心の世界に住むと、そんなふうな図が次々に浮かぶんです。
(男性)そうすると生み出す行動っていうものは・・・
(岡)生み出すというのが創造ですね。作るんじゃない。総て物質的になってしまって、人が寄せ集めて作ると思うんです。人間形成などというのは非常にいけない言葉です。赤ん坊、生まれた時すでに一個の生物です。あれを驚嘆の目をもって見るべきです。人を作るなどと云うことは到底云えないことだとわかるはずです。
(男性)それでは時代というものがですね、前の時代から次の時代に変わって行くということは、岡先生はどういうふうに思われる訳ですか。例えば百年前と今日では随分変わっていますね、それはどういうものによって変わったとお思いになる訳ですか。
(岡)神々の意図が一体奈辺にあるんだろうかと思って、よくわからない。神々のことはとてもわからないと思ってるんですけどね。川の流れのように順々に変わって行くものですね。非常に長い目で見なけりゃわからんのでしょう。神々の意図は、日本民族というものは地球上から滅ぼしてしもうにあるのかないのか、それからしてわからんのです。
(男性)神というのは心だとおっしゃいましたね、そうすると・・・
(岡)ええ、第二の心、それが神です。だから人はみな眠れる神ということになるんです。が、目覚めた神のことを云ってるんですけどね。
(男性)西郷隆盛が「命もいらず名もいらず」、こう云ったと云うことですが、ところが私などは命も欲しいし、名誉も欲しいし、金も欲しい。欲しいものだらけだと。この欲しいものだらけが第一の心で、西郷さんがはっきり云ったように「命もいらず名もいらず」となってきたら、これはもう第二の心だろうと。第二の心でやっていくと、現実の生活では損ばかりしているだろうなあとも考えられる訳ですが。第二の心でやると、内容、結果になるのかいなあと思いますけれども、それならそれなりに大勢の人とも仲良くもしていけるだろうし、本当にいい人にもなりきれるだろうと思いますし。まあ、余計なことですが、今お話を聞いておりまして、そういうことを感じました。
(岡)「命もいらず名もいらず」と大見得をきると、少し第一の心がはいってるんですね。(笑)総てはっきりして来ると第一の心がはいる。第二の心だけじゃ茫洋として捕えようがない。実際日本の歴史をみると、これを何と解していいのだろうかっていうようなことになってしまう。事実はそれかくの如きか、とでも云わなきゃしようない、わからんのですね。
(男性)私、この前先生に字を書いて頂いた時に、「幽遠」って書いて頂いた・・・
(岡)幽遠ですな。
(男性)幽遠って書いて頂いた。今お話を聞いておりまして、ははあ、「名もいらず」と云い切ってしもうたんじゃ、もうそこへのぞいて来ているのが第一の心だと・・・
(岡)ええ、はいってますね。
(男性)先生何もおっしゃらずに、幽遠って書いて頂きました。なんか、もっとかちっと書いて欲しかったんだけど、ほーと思ってたんです。成程なあと、今思うんですが。
(男性)だけど第一の心が全く存在しない人というのは有り得ないでしょう。
(岡)第二の心が主になって第一の心をよく使いこなすと役に立つんですね。第一の心が主人公になることは厳に慎まなきゃいけないんですね。だから会なんかも、うまく指導原理が確立して、うまくものが作られていくようになったら、みな悪いとは云えませんね。ある場合は非常に良いこともあるでしょうが、それを主目標にしたらいけないんですね。
(男性)第一の心の欲望というものをコントロールしているのが第二の心だっていう訳ですか。
(岡)ええ。本当は、第一の心は第二の心の欲望を欲望とすべきものなんですが、なかなかそうはなってないんです。小さな欲望を欲望とするんですね。長い間の、単細胞以来
― 昔は二十億年と云いましたが、今はまた変わってるようですが ― 仮に二十億年と云うと、単細胞以来二十億年の習性で、第一の心が主になるという働き方をまたしてもするんですね。単細胞が発達してこういうからだを持つようになるまで進化するのに対しては、第一の心の自我が主人公になって働くというような形をとって来た。しかし最早それが害になるところへ来ているんですね。が、長い間の習慣が抜けきれない。それでそれが根本の本能になっている。で、一切の悪いことはそれから出ると云われてるんですね。それが仏教のいう無明です。長い間の習慣ですけどね。肉体中心の生き方から心中心の生き方へ、切り替えなきゃならん曲り角へ人類はさしかかって来てる訳です。
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