(※ 解説1)
「理性」について。ここでも岡は「理性」というものを、簡単には評価していません。それは何故かというと、一般に使われている「理性」というものは、2つの不純物が混じっているというのです。つまり、「理性」の働く領域に3段階あって、純粋に心の世界に働くのが真智型理性(これを岡は純粋理性といい、仏教は平等性智という)、次に物質的自然界に働くのが妄智型理性(仏教は分別智という)、更に自己本位が前提の自他の別のある社会に働くのが邪智型理性というのです。
レベルの低い方からいいますと、邪智型理性とは国際紛争などで国益と称して国家が利己的に使う理性がある。今話題の尖閣諸島や北方領土や北朝鮮の拉致問題など、国と国とがいまだに邪智型理性しか使えないところに問題解決の難しさがあるのでして、これでは話し合いの余地はないのです。何も外国ばかりではなく、テレビで見る国会中継も日に日にその傾向が強くなってきています。また、岡を大変尊敬してくれている数学者の藤原正彦さんなどが「論理はどうとでもなる。人殺しだって正当化できる」といっているのも、この邪智型理性のことです。
次に、これは今の人はほとんど気づいてないと思うのですが、もう1つが妄智型理性というもので、主に自然科学者などが使う、時間空間の中に物質があるという前提のもとに理性を働かせるものです。
岡がよく引き合いに出すのが哲学者カントの言葉でして、カントは「時間空間は先験観念であって、自分はこれらなしには考えられない」といっていますが、既にカントの理性にはこの「妄性」が色濃く入っている。
カントのみならず西洋の哲学者や科学者は、この「妄智型理性」しか使えないから、だから多くの未知なる根本問題が未解決のまま残されていることにも気づかないし、まして真の生命現象などわかるはずはないのだと、岡はいうのです。
(※ 解説2)
「西洋人は第1の心のあることしか知らない」と岡はいう。今日まで西洋をこれほど簡潔に定義した人はいないから、我々はそれを聞くとあまりにも「極論」ではないかと思うかも知れない。実際、岡のいうことは一見、この「極論」の連続である。しかし、ここに岡潔という希有な哲学者の、先見の明と洞察力の深さを垣間見る思いがする。
私がこの西洋の限界に気づきはじめたきっかけは、岡と出会う前の学生時代に中国の古典「論語」を読んだ時からである。例えば「巧言令色鮮し仁」とか「大人は和して同ぜず、小人は同じで和せず」などと読むと、東洋と西洋では価値観の方向性が反対ではないか。つまり、東洋思想は概して西洋思想のパラドックス、全くの逆説ではないかと思ったのである。
その後、岡から西洋は第1の心の自我、東洋は第2の心の無私の心が基本になっていると聞くに至って、はじめて心底からその違いが腑に落ちたのである。老子は更に強い言葉を残している。「言う者は知らず、知る者は言わず」。これは小林秀雄の好きだった言葉でもある。
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