(※ 解説2)
「時間には人は何時も運動を使います」とはどういう意味でしょうか。それは空間(の中の万象)は目で見えるから直下にわかりますが、時間そのものは目では見えませんから、空間の変化や運動から時間を読み取るという意味です。
太陽や月が大空を移動したり時針の針がぐるぐる回るのは、時間そのものではなく、空間の変化や運動から時間を読み取っているに過ぎません。しかし、我々は長い間の習慣から、それを時間だと思い違いしていると岡はいうのです。
そうすると、いわゆる「時間」には2種類あって、自然科学者が対象とする第1の心の世界の計量することができる「時間」というものと、「過去、現在、未来」という第2の心の世界の「時」とがあるのです。前者が相対時間を説いたニュートンから絶対時間を説いたアインシュタインまでが問題にした「時間」というものであり、後者がベルグゾンが不思議がり、道元や岡潔が指摘した「時」というものです。そして本当は、人は「時間」の中にではなく、「時」の中に住んでいるのだと岡はいうのです。
また、岡によると時間空間というものは、人が生まれる前から既にあるものではなく、人が生まれてから後にその人の心の中に次第にできていくものである。自然科学者はそこのところを見る目が全くないから、「自然科学者は時間空間とはどういうものかと少しも考えてはいない」と岡にいわれるのです。
人は生まれて3年目に時間空間の観念ができ、4年目には感情意欲の主体としての自分を意識するようになる。ここに至ってはじめて西洋心理学でいう「自我」が生まれたのだと、岡はいうのです。そして自然科学という学問は、その「自我」の目で見た世界観の産物以外の何者でもないのです。
最後に一言。「時間空間とは初めに画用紙があるようなものです」とは、うまい表現ですね。私の印象に強く残っている言葉です。
自らの世界観を伝えるために、如何に苦心したか。岡のこのような比喩は絶妙という外ありませんね。
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