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 2013.01.26 up

岡潔講演録(4)


「自然科学は間違っている」(1) 岡潔著

【 4】 自然科学と生命現象

ところで、自然のできるだけ簡単な模型を考えて、その中を科学するということは、知ってやってるのだとすれば確かに一つの研究方法に違いない。知らずにやってるんですけど、それでもある結果は出るだろう。そうは思います。しかし、こういう簡単な模型の中だけを調べたのでは、わかるものは物質現象だけで、生命現象はとてもわからないのではあるまいかと、こういう疑いが起こります。それで自然科学に聞いてみましょう。

人は生きている。だから見ようと思えば見える。何故であるか。自然科学はこれに対して本質的なことは一言も答えない。

余計なことはいっています。視覚器官とか視覚中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら見えないという。故障がなかったら何故見えるかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。

人は立とうと思えば立てる。この時、全身四百いくつの筋肉が突嗟に統一的に働くから立てるのですが、何故こういうことができるのか。これに対しても自然科学は本質的なことは一言も答えられない。

人の知覚、運動、どれについても本質的なことは一言も答えられない。知覚、運動というのは生命現象の「いろは」でしょう。もすこし突っ込んだものを申しましょう。

人は観念することができる。観念するというのはどういうことをいうのか。一例として、哲学することができる。何故か。自然科学は勿論、一言も答えられない。

人は認識することができる。何故か。これに対しても一言も答えられない。人は推理することができる。何故か。これに対しても一言も答えられない。それじゃあ一番簡単に、人は感覚することができる。何故か。これに対してすら自然科学は一言も答えることができない。

(※ 解説4)

数学で最も大切なことは解答を出すことよりも、むしろ問題を捜すことである。数学の世界全体に影響をおよぼす、どれほど重要で大きな問題があるかを捜すことである。岡の青年期のフランス留学も、実はそのためのものであったと岡自身が述懐している。

このページも正にそれが当てはまる。人はなぜ見えるか、人はなぜ立てるのかという極く当たり前のことに、こんな重要で難しい問題があったとは、誰も想像ができなかったに違いない。

以前の私もそうであった。このような根本的問題に疑問を感じ、またその解答を得てこそ、真の生命現象がわかるというものである。無論これは、既に岡以前に仏教が気づいていたことであるが、その点では「仏教をなめたらいけない!」と岡に一喝されそうである。

ともあれ自然科学は、目に見えるものを精密に調べ、その結果を順々に積み上げていったのであるが、岡の思考方法はそれとは逆に人には気づかず、また目には見えない未知なるものを、人類に先駆けてどんどんと掘り下げていったのである。

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