(※解説13)
ここも「仏教の限界」とタイトルをつけたいところだが、この1970年頃から仏教の批判が本格的になってくる。「仏教でいう識とか識心とか云うのは心ではない、心あらしめているからくりである」と岡はいっているが、これはどういう意味だろうか。ここは仏教を位置づける上で、大変重要なポイントである。
私の「心の構造図」を見てもらえばわかりやすいと思うのだが、人を植物にたとえると、自我(第7識)が幹や枝葉の地上部分である。仏教の説く第8識が株、同じく第9識が地下茎、岡の説く第10識の「情」が地下水に相当する。仏教は第8識または第9識を「識心」といっているようである。
そこで考えてみるに、株も地下茎も土の中にあるから外からは見えない。だから人でいえば「肉体」ではなく目に見えない「心」であるが、岡によれば「心」とは本来流体である「情」のことであり、その「情」という地下水が地下茎や株を通って地上部分に送られてはじめて植物が生きているのである。
だから株や地下茎は、岡のいう「情」を地上部分に送るいわば「からくり」ということになるのである。岡はそういうように仏教の「識」とか「識心」を見ているのではないだろうか。
(※解説14)
岡はまた「無限向上というものが仏教にはない」ともいっている。仏教は何よりも第7識の「自我」を滅却して、いわゆる「オカルト的世界」の第8識、そして第9識の「仏の知の世界」に到達することが目標なのである。だから岡はこの「自我の滅却」に重点を置く仏教を「心のお掃除」といったのだろう。
しかし岡はこの時点で、後に発見することになる第10識「真情の世界」があることを薄々わかっているのであって、どうしても第9識までの仏教が終着点だとは思えないのである。
この「真情の世界」が岡から見ると本当の「心の世界」なのであるが、更に後々この満々と水をたたえた「真情の世界」はいくつもの層になっていて、その深さがまだまだ続いていることが、岡自身にもわかってくるのである。これが岡のいう「無限向上の世界」である。
岡は最晩年の4、5年の間に猛スピードでその心の層を1つ1つ確認していき、そして遂にわかったことはこの世界には最高「第15識」まであるということなのである。これは岡が人類で唯1人、初めて発見した「心の世界」なのであって、我々がそれを確認するにはこの先60万年はかかるだろうということである。これが人類の「心の世界」における未来図である。だから高々2000年の仏教では歯が立たないのである。
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