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2014.08.01up

岡潔講演録(11)


「自然科学は間違っている」(4)

【11】 家と人

 仏教はずいぶんいろいろ教えてくれている。だがよく見るといろんなものが仏教には欠けている。例えば漱石が創作の表題にしたような内容の「こころ」は仏教にはない。

 仏教では全ては6つの元素からなると云っている。地、水、火、風、空、識が心である。しかしこの識とか識心とか云うのは、例えて云えば家の電燈のようなものであって、その電燈によって本を読んで分かるのではない。これは心ではない。心あらしめているからくりである。それで心と云う言葉はない。

 「時」と云うものもない。時間とは時の中の過去の持つ1つの性質「時は過ぎ行く」と云うものを観念にかえたものである。しかしその「時」と云うのは何か。仏教の6つの元素の中には「時」はない。説明していないのである。だから「時」を説明しないで初めとか、終りとか、表情とか情緒とか云っても意味が分からない。

 仏教はことごとく説明されているのではない。よく読むと説明なしに言葉を使っている。だから読むとそんな感じがするだけである。ともかく「時」と云うものはない。

 またもう1つ「無限向上」と云うものがない。仏になってしまえばもうその上はないのだと云う。これでは仏教とは心のお掃除のことかと云うことになってしまう。しかし「無限向上」と云うものがあるから未来は無限であると云っても内容を持つのである。「無限向上」がなければ未来は内容がなくなってしまう。

 このようにあげて見ると、仏教が口に出して云っているのは、仏教は人の住む家のことである。家に住む人のことは云っていない。

(※解説13)

 ここも「仏教の限界」とタイトルをつけたいところだが、この1970年頃から仏教の批判が本格的になってくる。「仏教でいう識とか識心とか云うのは心ではない、心あらしめているからくりである」と岡はいっているが、これはどういう意味だろうか。ここは仏教を位置づける上で、大変重要なポイントである。

 私の「心の構造図」を見てもらえばわかりやすいと思うのだが、人を植物にたとえると、自我(第7識)が幹や枝葉の地上部分である。仏教の説く第8識が株、同じく第9識が地下茎、岡の説く第10識の「情」が地下水に相当する。仏教は第8識または第9識を「識心」といっているようである。

 そこで考えてみるに、株も地下茎も土の中にあるから外からは見えない。だから人でいえば「肉体」ではなく目に見えない「心」であるが、岡によれば「心」とは本来流体である「情」のことであり、その「情」という地下水が地下茎や株を通って地上部分に送られてはじめて植物が生きているのである。

 だから株や地下茎は、岡のいう「情」を地上部分に送るいわば「からくり」ということになるのである。岡はそういうように仏教の「識」とか「識心」を見ているのではないだろうか。

(※解説14)

 岡はまた「無限向上というものが仏教にはない」ともいっている。仏教は何よりも第7識の「自我」を滅却して、いわゆる「オカルト的世界」の第8識、そして第9識の「仏の知の世界」に到達することが目標なのである。だから岡はこの「自我の滅却」に重点を置く仏教を「心のお掃除」といったのだろう。

 しかし岡はこの時点で、後に発見することになる第10識「真情の世界」があることを薄々わかっているのであって、どうしても第9識までの仏教が終着点だとは思えないのである。

 この「真情の世界」が岡から見ると本当の「心の世界」なのであるが、更に後々この満々と水をたたえた「真情の世界」はいくつもの層になっていて、その深さがまだまだ続いていることが、岡自身にもわかってくるのである。これが岡のいう「無限向上の世界」である。

 岡は最晩年の4、5年の間に猛スピードでその心の層を1つ1つ確認していき、そして遂にわかったことはこの世界には最高「第15識」まであるということなのである。これは岡が人類で唯1人、初めて発見した「心の世界」なのであって、我々がそれを確認するにはこの先60万年はかかるだろうということである。これが人類の「心の世界」における未来図である。だから高々2000年の仏教では歯が立たないのである。

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