対談 小原實晃・横山賢二 第1部 「情の世界と物理学」
【9】 物理学と宗教
(横山) 現代の物理学の先端が第8識まで来ているということになれば、仏教の光明主義は第9識の理論なんです。何が違うかというと、この第9識は完全に時間空間はないんです。
(小原) ないけれども懐かしさの世界。
(横山) まだそこまでは行ってないですね、岡のいう懐かしさの世界のとこまでは。ここ(第9識)はいわば純粋宗教。物理学は宗教という前提に立っていないですけれども、これ(第8識)からもう一歩先へ進むということになれば第9識の理論、つまり宇宙に唯一絶対の中心、仏教でいう「如来」があるということを前提に物事を考えていかなければならない訳です。
つまり、宗教を前提としていない現代物理学は、宗教なしには存在しえないという自家撞着に陥ることになるんです。それが今の科学者にはわかっているのかどうなのか。
(小原) そうでしょうね。ただどうしても人類は「如来」というような表現をすると何か恣意的な、つまりギリシャ神話と同じように人間を託してしまう、それを理解しようと思うと。だから如来の世界、第9識というのは恣意的なものをもった神様のようなものが存在するという風に見てしまうんです。
(横山) それでは学問にならないですものね。
(小原) ええ、学問にならない。神話になってしまう。
(横山) だからやはり西洋の現時点での到着点は第8識止まりになってしまいますね、学問としては。それ以上、心の世界としては行けないということですよね。
(小原) 第9識のことを考えると、どうしても神話になってしまう。だけどもやはり日本の古事記だって、その世界で書いているじゃありませんか。
(横山) 古事記はもっと深いといいますけどね。第9識とかいうものじゃない。
(小原) 深いけど、やっぱり現れてる神様は意識を持ってるじゃないですか。
(横山) そう、岡はアホダラ教的に書いてあるといっています。日本の神様の言葉をアホダラ教的に書いたのが古事記である。しかし次元が遥かに高く、日本民族の30万年の歴史がその中に詰まっているといっています。
(小原) それはわかりますよ。だけど日本書紀も古事記もあのままでは仲々・・・
(横山) 私も全然、あれをそのまま採用できるとは思ってないし、やはり理学的方面から入っていくべきだということですよね。だけども唯一絶対の如来というんじゃなくて、宇宙に法則(知)の中心があるという表現にしているんですけどね。遺伝子工学で有名な村上和雄さんは「サムシング・グレイト」といっていますが。
(小原) 如来というと仏教用語になっちゃいますからね。
(横山) それでこのあいだ気がついたんですけども、その辺のところですが、キリスト教の「造物主」という言葉を小原さんはお使いになりました。私もあとで小原さんのいわんとするところがピンときて、大変おもしろいと思ったんです。それはつまり、この目に見える世界を造った神という意味で「造物主」といった訳でしょう。
(小原) そういうことをいってるんです。そうそう、その通り。
(横山) そうでしょう。だからキリスト教の限界はそこにあるんですね。
(小原) 完全にそこです。
(横山) だからキリスト教は時間空間の中にある宗教ですよね。例えば創世記でも神が「光あれ!」といった時、既に時間空間はあるという前提です。ところが我々東洋の宗教というのはそうじゃない。時間空間を包み込む心の世界が先にあるということでしょう。目に見えないけれども心の世界という前提。西洋でいう心とはマインドとかいいまして、この肉体のなかにある自分の意識ということですからね。全然違うんです。
(小原) 深い心、浅い心という時の心の使い方が、前々回に確認したように浅い心の意(競争心)と深い心の意(向上心)と全然違うんです。それと同じように心もやはり違った意味なんですね。
(横山) そうなんです。西洋では体の中にあるのが心ですから。自分の意識でわかる体の中にある心が心なんです。それ以外の心を心といっていないんです。モナドとかイデアとか、そういう風ないい方になってくるんじゃないですか。
それでキリスト教の世界観 ― 宗教というと皆んな同じだという風な考えを持っていますが、岡はそれは違うんだといっています。なかなかこれを一般の人に受け入れてもらうことは難しいんじゃないかと思いますが。
(小原) 情緒という言葉さえ様々に解釈されていまして。
(横山) そうそう、いい意味わるい意味とありますね。それでキリスト教の神というのは先程もいいました西洋は浅い心の世界観ですから、個人と個人が相対立する訳です、肉体は別々ですから。これを個人主義といっているんです。肉体が自分だと思ってれば、肉体は別々だから人は赤の他人ということになりますよね。
(小原) だから浅い心と心が対立している訳です。
(横山) そうそう、その世界観です。更に宗教でも神と人とが対立するんです。
(小原) そうなんです、そうなんです。
(横山) だから神は人を支配する、人は神に支配されると、こういう風なことになる。これを私は「意志の宗教」といっているんです。西洋は神も人も個人主義ですから、人は神と契約をする。ご存知のように人間社会も西洋は全て契約でして、別々の存在だけど手を結びましょうよというのが契約ですよね。
だから神と契約することが宗教になるんです。しかし、契約しない連中がいる訳でしょう。それは異教徒ということになりますね。神と契約している自分は神とつながっているんだけれど、異教徒はそうじゃない。しかも浅い心の世界は意志(力)の世界ですから、そういう目から見ると異教徒は存在する意味がないということになる。これが今西方でさかんに行なわれている宗教戦争のメカニズムといえるんじゃないでしょうか。
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