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2018.05.11up

横山講演録(4)


対談 小原實晃・横山賢二 第1部 「情の世界と物理学」

【10】 知と情

(横山) ところが東洋の場合には、例えば竹の林を連想してもらえばわかるように、人と人とは目には見えないが何か地下茎のようなものでつながっているというんです。それが神とか仏とかいうものです。その前提があるんですね、直感的に。

 その前提があるから各人はお互いを見てみると、相手の心の中に神や仏がいるということになってくるんですね。そうすると神や仏を尊重するということは、とりも直さず相手を尊重するということになる訳でしょう。だから宗教戦争は起こりえないし、実際宗教戦争は東洋では起こってはいませんよね。

 これが東洋と西洋との人間観、宗教観の違いということになるんです。ここを先ず一般の人に理解してもらえるかどうかが問題ですね。なかなか難しいんじゃないかと思いますが。

(小原) 横山さんは高知新聞への投稿に似たようなことを書いてましたね。あの時も浅い心、深い心で書いてましたから、理解してもらえなかったんじゃないでしょうか。「心」といっちゃうとどうしても深い心であれ浅い心であれ 、その人の中にある心が浅いか深いかと理解してしまうんです。こういう図式では理解してくれませんから。だから横山ダイアグラムで岡先生のいう「心」はここだよという風にちゃんと入れておくとか、あるいは「情緒」と入れておくとか。

(横山) そうですよね、それを考えないといけませんね。それでまあ、その先をちょっと追加すると、第9識というところは竹の地下茎ということになりますね。岡も光明主義を信奉している時にはそれでいいんだと思ってましたが、その後いろんな条件からもう1つ下に深い心があるということを発見して「真情」という言葉を使う訳です。

 仏教は例えば水道でいえば、水道管で人と人とがつながっているのだとしかいっていない。つまり第9識というパイプのことしかいっていない。しかし情は流体ですから融合したり離れたりと、こういう風に融通無碍なのが情の世界ですからね。そういうことを仏教は正確に掴んではいないんだと気がつく訳です。

 だから水道管の中を水が流れなきゃ、または電線の中を電気が流れなきゃ、お互いの心の交流はありえない訳でしょう。仏教はその水や電気のことはいっていないんだ。日本人が「心」というのは「情」のことだから流体だということ、それを岡は発見する訳です。

(小原) 日本人が「心」というと「情」だという? 日本人が「心」という時は「情」のことをいっているという?

(横山) ところが東洋は「知恵だ、知恵だ」といいますよね。

(小原) 岡先生がそういう風に「情」という言葉をしきりに言いはじめたのは何時頃なんでしょうね。

(横山) それは私が最も好きな時期、そして人々が岡を忘れ去った岡の晩年中期、つまり1972年です。「情緒」ということは随分前の「春宵十話」からいってましたね。しかし、それは完全にはわかっていなかったんです。それが完全にわかったのが1972年です。

(小原) だから情緒という他の人が使わない言葉を使った。

(横山) 大体普通であれば知恵だというんだけども、知恵でなく情緒という言葉を使って、情の領域をさぐっていってる訳です。ところがそれが仲々わかってこない。1968年頃、中国人の胡蘭成と出会って彼が「知恵が大事、知恵が大事」というものだから、そこで岡にも初めてわかってきたんです。

(小原) ああそうか、胡蘭成は情緒がわかってないと思ったんだ。

(横山) 胡蘭成、わかってないですよ。あの文化は知恵を大事にする文化です。

(小原) 情緒はないですよね、はっきりいって。岡先生のいう情緒がないですね。

(横山) 中国の文化は情緒というのは、庭を見てもそうでしょう。風変わりな岩をゴトゴト並べただけの殺風景な庭でしょう。あれは仙人の世界をイメージしたものだと思うんだけど、日本の庭といったら水と石と木々の織りなす緑あふれる庭じゃないですか。何よりも瑞々しいですよね。これが情の現れです。

(小原) そこが重要ですね。胡蘭成の話も絶対出さなきゃいかんのだけども、中国や仏教の世界には「情緒」という概念はないですね。だから僕等は「情緒」という言葉を浅く使っちゃって、悟りを開いた人達はみな薄情になるというのもそこなんですね。薄情なんです、情がないんです。

(横山) 知に徹したら薄情になるんです。

(小原) なりますね、なりますね。

(横山) ところがよく見ると、そこが日本列島の中だけ違ってるんですよね。大陸はそうだけど、その違うということを日本人は自覚していないんです。

(小原) 自覚してる人もいるでしょうが、そこのところを動かしてどうこうという意識は全くありませんね。ほとんど99%の人が。つまり情というものが景色まで変えてしまいますものね。

(横山) 全く違いますよね。情の目で見るのと、知の目で見るのとでは全く違いますね。

(小原) そこのところをもっと詳しくキチッと文章にしなきゃいけませんね、岡先生でなくて我々が。

(横山) それはこういう録音をとりながらやっていくと、不完全でも1つ文章としての形ができますから、そうするとそれに修正を加えてより完全なものが生まれてくるし、我々の考えもより深まっていくということになりますね。

 それで先程の第9識ですが、先程は第9識で終っていますが、情の世界はもう一段深い第10識ということになるんです。第9識は宇宙の法則、知の中心ということだから、純粋な宗教の世界ということになるでしょう。ところが第10識は僕はその宗教を突破した世界になるという風に思うんです。瑞々しい情緒の世界は、いわゆる宗教とはちょっと異質の世界ですよね。つまり宗教臭さがなくなるんです。

(小原) その第9識では時間空間がないといいましたけども、その意味がやはり普通の人ではわからないかなあ。時間空間はないけども何らかの認識はある訳でしょう。

(横山) 認識というか、それはそうでしょうね。仏教者なんかが随分とその第9識の世界に徹して悟りを開いてきた訳ですから、そういう世界はあるし、岡先生もやはり仏教のいっている心の世界(真如)は第9識だと、その世界は私にも実感できるということをいってますね。

(小原) 何らかの認識をしようとしている訳ですか。イメージみたいなものが湧いていると思うんですが、第9識は。

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