対談 小原實晃・横山賢二 第2部 「心の構造と大脳」
【14】 大脳生理と心の構造
(小原) 横山ダイアグラム(心の構造図)と大脳生理の総合像がピタリと重なるんだという風に先日おっしゃいましたが、その部分を時間があったらもう1つグラフみたいなものを作って・・・。
(横山) 大脳の図ですか。それは簡単なんですよ。大脳を横からみたあの図を90度傾ければ、大体それに一致するんです。
(小原) ああ、そうですか。
(横山) それがヒントですね。
(小原) 先日ちょっとそういうことをおっしゃったんだけど、そこがつながっておりませんので。そういうことで僕が担当した数学と大脳生理と教育というのが、横山さんのこのグラフに最終的に行きつく感じになりますね。
(横山) そうですか、それじゃ簡単に説明しますと、アメリカ文明は側頭葉文明で、第7識(自我)の文明の中でも一段浅いんです。機械文明、能率文明ですから。ヨーロッパ文明というのは前頭葉文明ですから、同じ浅い第7識(自我)の文明ですが、アメリカに比べて一段深いんです。
だから上の三角形(第1の心)は大脳生理学的にみて浅い側頭葉と基礎の前頭葉との2つに別かれるんです。
それでは「第2の心」の東洋思想の中枢といいますと、これは岡がいっていますとうり山崎弁栄の言葉「頭頂葉は霊性の座、前頭葉は理性の座」というのがありますし、それから老荘思想では泥洹宮というところが「有無を離れた境」といっていまして、それは無意識、無私の心の世界ということで中国では頭頂葉を指しているようです。
(小原) そこのところを山崎弁栄さんの名前まで、今おっしゃったこと全部を線をひっぱって文章を入れなきゃいけませんね。
(横山) ええ、岡はその山崎弁栄上人の言葉1つを頼りに、無意識、無私の心は頭頂葉にあると特定した訳です。しかし大体、頭頂葉でしょう。東洋医学なんかも「天柱()」 といって、頭頂葉を重視してますよね。
(小原) いわれてみて、初めてわかりますね。
(横山) しかし胡蘭成さんなんかは初めは頭頂葉ではなしに、「丹田」が中枢だという風に思っていたようです。丹田というのは東洋ではよくいわれますが第8識、つまり第2の心の「意志」の世界が丹田だと私は思うんです。意なんですよ、深い心の意ですね。
修行する時なんかには丹田に力を入れよといいます。修行で難行苦行して、第8識に入っていくところが丹田なんです。だけど本来の東洋思想は無意識、無私の心の第9識の世界ですから、第9識が頭頂葉になる訳です。ここまでは岡も当初わかっていたのです。
ところが最終的に第10識「真情の世界」が発見されたでしょう。そうすると大脳のどこがそのありかかということが問題になるのですが、やはり残りの後頭葉ということになる。ここは視覚中枢が入ってきている。それから時実先生がいうには資料室がある。資料室というのはですね・・・。
(小原) エキスを溜め込むところですか。
(横山) そうです、よくわかりますね。雰囲気のエキスです。
(小原) ああ、なるほど。雰囲気ね。雰囲気がわかるというのですね。
(横山) そう、趣き。知的にわかるんじゃない、情的にわかるんです。
(小原) だから懐かしさですよ。懐かしさの根元ですよ。そこにエキスの雰囲気が溜まっていくんですね。だからそこで本当にわかるという現象がおこるんでしょう。
(横山) そうです。だからここは認識中枢でもあるんです。だからなぜ人によっては日本人は岡のように西洋のものを見ても、その底まですぐにわかってしまうかというと、この情の認識中枢で認識するから「アレ、何かおかしいぞ!」とすぐにわかる訳です。
ところが第9識の頭頂葉だと一応「無私の心」でいいんだけど、観念するんですよね。形式的、観念的に物を見てしまうんです。だから仏教はなぜ正しいかと質問したら、それは釈尊がそういったから正しいんだとしかいえないんです。自分の目で認識して、自明だからそうだとは仲々いえないのです。
(小原) ああ、そうですね。わかります、わかります。
(横山) その違いがあるんです、頭頂葉と後頭葉の違いは。
(小原) 釈尊のいったことを鵜呑みにする。盲信する。
(横山) 観念的に受け入れる。だから仏教徒が困っているのは釈尊のいうこと、つまり釈尊の言葉から釈尊の「知恵」はわかるんだけど、釈尊の境地、つまり釈尊の「情の世界」 が仲々わからない。それが悩みの種なんです。
(小原) ねえ、誰も成仏できないですものね。
(横山) それは観念だから、そういう風な言葉を吐くんです。認識だと物事が本当に腑に落ちて、実際私はこう思うからそれが正しいんだと、自信をもっていえるんです。
(小原) わかるというところまで行かないんですね。
(横山) 観念では本当にはわかってないんです。腑に落ちるとは認識すること。これが後頭葉の真情の働きです。「知」では認識できないんですよ。知では同じ種類の知のパターンであれば、それを認めるというだけです。数学でいえば、ただ公式を使うようなもの。
岡はその「知」を重視する東洋思想の欠点というのがわかった。だから第9識のもう1つ奥の第10識がわかった訳です、これが「日本の心」だと。
(小原) わかりました!
(横山) しかも大脳生理的に孫の「始」を発生的に観察して、前方の頭頂葉から運動領へ成長が進んでいるのであれば、後方の頭頂葉から後頭葉へ成長が進んでいる筈だという段階で、孫は目で物をいうことができるようになった。これが「心眼」ですね。
これができるようになったということから、後頭葉は「情緒の中枢」であるということがわかったのです。だから後頭葉が「心そのもの」の情緒の世界であり、人の心の認識中枢のありかだとわかってきたのです。
これが岡の大脳生理の総合像です。しかし、大脳生理学の現状を見ますと、機械(コンピューター)の座である側頭葉。自我意識と思考の座である前頭葉。「正直の首に神宿る」といわれる無意識、無私の心の座である頭頂葉。そして最後に情緒の中枢であり、1識1万年をかけて人の心が向上していくと岡のいう認識中枢の座が後頭葉ということになるのですが、このようなことは今日の大脳生理学ではとても想像もつかないのではないでしょうか。否、大脳側頭葉が機械の座であることすら、いまだ特定し得ていないのです。
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