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2015.04.23up

岡潔講演録(14)


「心そのもの、命そのもの」

【1】 2つの心

 人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心は(わたくし)というものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。

 それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。

 これは心理学者は知らないんだけど、子供の生い立ちを見てますと、第4年目にはこうなりますからわかります。人とはどんなものか、子供の生い立ちを見るのが一番よくわかる。第4年目にこうなる。それが前頭葉に宿る心です。

 欧米人はこの第1の心しか知らない。しかし人にはもう1つ心がある、第2の心。心は2つしかないのです。1つじゃない、もう1つある、第2の心。この第2の心は前頭葉に宿っている。この心は無私の心です。私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、(じか)にわかる。

 それから頭頂葉に宿るというのは、中心が頭頂葉だという意味ですが、この心は頭頂葉から広がって肉体の全部を覆い、更に広がって物質的自然界の全部を覆い、更にその外に出て、およそ時というもののある所、現在、過去、未来の如何を問わず、時のある所にはこの心は必ず広がっている。こういう第2の心というのがある。

(※解説1)

 「ここから何時もいわなきゃ仕方ない」と冒頭に岡がいっているように、この1969年から2、3年という岡が急速に境地を深める晩年としては相当長い間、この「2つの心」を原理として東洋と西洋の文化文明を明確にしようとする時期である。

 従って西洋文明ばかりではなく、東洋の文化をも「理学的」に把握しようと思うなら、この時期の岡のものを読むのが最適である。

 特にここでは、「2つの心」と「物質的自然界」との関係について言及しようとしているところが他では見られないところなので、強いて挙げてみたのである。

 先ず「第1の心は物質的自然界を覆うている」とはどういうことだろう。岡は「物質的自然界は自然科学者が研究の対象としている自然である」というのだから、その「研究の対象とすることができる」ということは、取りも直さず「その心はその世界を覆うている」といえるのではないだろうか。逆にいうと、仮にその心がその世界を覆うていなければ、研究の対象とすることなどできる筈はないのである。

 次に「第2の心は物質的自然界の外に出て、およそ時というもののあるところには必ず広がっている」とはどういうことだろう。その最もよい例は、岡自身がシンガポールの渚で経験した強烈な「懐かしさ」である。時間空間を超えて、日本民族の1人としてこの地点を確かに通ったという過去の経験が強烈な「懐かしさ」となって現れたのだから、これもやはり物質的自然界を越えて、「過去」という「時」が蘇ったといえるのではないだろうか。

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