「心そのもの、命そのもの」
【2】 念の経絡
ところで、第2の心が本当の自分です。その中心が頭頂葉に宿っている。宿っているというのは中心が頭頂葉にあるということ。それで意志は頭頂葉から出るんです。これを念という。「残念無念」の念。念という、意志です。意志って、非常に強くそれが残った時、念ていいますからね。執念の念、やっぱり意志。これを念という。
それが大脳を伝って流れて前頭葉まで達する。それを意という。意というのは仏教の言葉、意志と普通いうんだけど、意志というより意という方が感じが出て言葉としてよろしい。意という。意識できるのは意から出来ます、念はまだ。
しかし、仏教では修行の積んだお坊さんはわかるのね。しかし、その次の数は、これは紙屑であって算数できん。「人には1日8億4千の念がある」という。どーして、8億からポンと跳んで4千ていうのかわからんのだけど、何か8億4千ていうと生花でいえば良い枝振りだなあと思う。感じでしょうね。8億4千の念がある。だけど、非常にこう念が出てるのね。正確に計って欲いんだ。ちっとも科学的なやり方をしようという意欲がない、坊さんは。8億4千たら感じです。
ところで、頭頂葉から前頭葉に達するに2通りの道がある。前回りするか、そうすると頭頂葉、運動領、前頭葉とこう行く。後ろ回りすれば、そうすると後頭葉、側頭葉、前頭葉と行く。側頭葉は2つあるじゃないかっていいますが、これは連絡ついてますから同じようなもの。頭頂葉、後頭葉、側頭葉、前頭葉と行くか、これ後ろ回り。頭頂葉、運動領、前頭葉と行くか。2通りある。
これは、はっきりこんなの、もっとないっていうこと知る為には、脳の解剖図がないと。で、まあ2つ。それで、人はどっち回りして念が意になってるかというと、前回りして念が意になってる一群の人がいる。これを西洋人と定義します。後ろ回りしてるのを東洋人と定義する。
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