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2015.04.23up

岡潔講演録(14)


「心そのもの、命そのもの」

【3】 国際紛争

 知もまたそうです。前頭葉、本来平等性智(びょうどうしょうち)が働いてる。ものの訳は平等性智。だから、そのまま働きゃあ大変いいんだけど、やはり、その妄性と邪性が入る。妄性が入ったのを妄智という。入らんのを真智という。邪性も入ったのを邪智という。だから邪智態の平等性智が働く。欧米人、これ使う。

 邪智態の平等性智を理性という。こんなもん、使わんでくれという方が良いかも知れない。邪性がひどく悪い。妄性も相当困る。まあ、それについて丁寧にいってもよろしいが、理性というのは如何にも妄性と邪性と入る。ちょっと説明しましょうか。

 例えば、国際紛争が起こる。そうすると先ず現状を調べる。これが妄性です。正しいことは現状の如何を問わず、正しいことは正しい、間違っていることは間違ってる。それを現状はどうかと真っ先に調べる。妄性ですね。最後に、これはもう、そんなことすると自国が損の得のと言い合いする。これは邪性。そして妥協するんです。

 国際紛争は一応、うまく行った時も必ずこの形式を取る。そして彼等は理性的に解決したといってる。その通りで、理性というのは必ず妄性と邪性が入るのだ。物の道理を説くなら平等性智。これを知らなきゃいけない。そうなってる。物の道理がわかる代りに妄性と邪性とを入れるっちゅうんだから、これ使った方がいいか、使わん方がいいかわからんのです。時と場合によるでしょう。

(※解説3)

 人類に中で「理性」について、これほど鋭い分析をした人など他にはいないだろう。流石に日本の誇る世界的数学者だけあって、私の知る限り人類のもつどの文献にも、そんなことは書いていないように思う。

 大概の人は「理性」は1種類だと決めてかかっているし、我々日本人は「理性」といわれると初めから頭が上がらないのであるが、よくよく見てみると「理性」には3種類あると岡はいうのである。

 日本人は無私の心(第2の心)というものを知っているし、日常無自覚に使ってもいる。その無私の心に岡のいう「純粋理性」、仏教でいう「平等性智」が働くのである。

 しかし、彼等西洋人は岡のいうように「第1の心」しか知らなくて、時間空間の中に物質があり、その物質をもって全ての説明の根拠とするという「妄性」と、どうしても自己中心に考えるという「邪性」としか使わないから、我々日本人の「理性的判断」とは何か異質なものを感じるのである。

 今日の目にあまる我々日本人には理解不能な「国際紛争」にも、至るところでそれは現れているが、1つ例を挙げれば「捕鯨」の問題がある。彼等西洋人は昔から長い年月をかけて牛を殺して食べてきているのであるが、鯨は自然保護の観点から食べるべきでないという。

 鯨を保護するのだったら、同時に牛も保護しなければならない筈である、インドのように。それを更に牛を人工的に生産してまで殺して食べるのが正当だというのだから、これは丸で宮沢賢治の「注文の多い料理店」そっくりである。

 そこには自己中心に理性を働かせる「邪性」と、西洋に定着している長年の肉食文化の大前提をはずしたくないという「妄性」が色濃く現れているのである。少なくとも西洋人に、自らの理性に「妄性」と「邪性」とが混っているという自覚がありさえすれば、日本にそんな一方向な要求はできない筈である。

 しかも日本では、以前から鯨を捨てるところがないくらいに「勿体ない精神」の食文化を築き上げてきたのに、西洋ではただ油を絞りとるためだけに鯨をとって、あとは全て廃棄してきたという厳然とした歴史があるのは衆知の事実ではないだろうか。

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