(※解説9)
日本に古来から伝わる「古神道」、つまり純粋な「日本の心」の中に、不純物が混っているという岡の指摘である。
先ず挙げているのは、日本民族がインドの沿岸を移動している時に、インドから入った仏教の「天道の神」がある。この「天道」とは六道輪廻の中では最上階の位置ではあるが、仏教にはその六道の上に「声聞、縁覚、菩薩、仏」の4階程があって、「天道」はそれに比べるとあまり高くはないのである。
辞典で調べてみると、「天道」とは「人道の世界よりも苦がなく、楽の多い世界」とあるが、岡も録音の中で「天道とは何でも思うようになる世界」とか、「天道とは虫食いの柿が早く赤くなるようなもの」とか、「天道へ行けば地獄道へ逆落としが普通だ」とかいっていて、「天道」をあまり肯定的には見ていないのである。
従って、この「天道の神」というのを岡の心の構造図に当てはめると、多分「第7識上層」か「第8識」ということになりそうである。ところが日本の神々は「第10識」の世界に住んでいると岡はいうのだから、その間には相当な開きがあるのは当然のことである。
次に、日本民族が南洋の島々を経めぐっている時に混入したと思われる「南洋の神」であるが、岡はそれを「南洋の自然教」といっている。
この「自然教」は基本的に自然物に霊魂や精霊が宿ると信じていて、それらに超日常的な「力」を感じるものである。しかし、ここで気をつけなければならないことは、日本では自然物に「情緒」や「風情」といった「情」を感じるのが一般的であるが、アジアの他の地域ではそれらに「畏れ、たたり、タブー」といった超日常的な「力や意志」を感じているのではないだろうか。
だから一口に「自然教」といっても、その内容は大分違っているのであって、ここでも岡の心の構造図に当てはめると、第2の心の「意志の世界」は「第8識」ということになり、南方の自然教は日本の「第10識」の世界とは相当な開きがあるのである。
それに関して、親日派の韓国人である呉善花女史は著書の中で、日本の自然崇拝を「ソフトアニミズム」といって「ソフト」という言葉をわざわざ付け加えているが、そこには何か他の地域とは違う別種類の「アニミズム」を感じているのであって、彼女は本当は「情のアニミズム」と言いたいのではないだろうか。
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