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2015.04.23up

岡潔講演録(14)


「心そのもの、命そのもの」

【9】 インドと南洋の神

故蘭成(こらんせい)さんという日本に20年ぐらいいる中国人がある。この人は日本の文化で、オリジンを中国に発してないものは神社形式だけだといってる。しかし、日本民族は10万年くらい前から数万年(多分4万年ぐらいでないかと思います)前まで数万年の間漢民族と同じ1つの民族であって、黄河の上流で稲をつくってたんです。

 だから、日本の風俗がオリジンを中国に発するのは当然であって、日本民族にしてみれば、つまり黄河の上流時代の祖先の風習から出発して段々変えて来たんです。こんなん当り前のことです。何も中国にオリジンを発してるんじゃない、祖先にオリジンを発してる。

 が、問題になるのは、神社形式が少しも似てないということです。如何にもこれは似てそうもない。中国の神社見たことありますが、あそこは(びょう)という。関羽の廟、孔子の廟、泰山廟。どうも神社とは違うらしい。お霊屋(たまや)ですね。それで神社形式はそれから後に、そこからずっと回って日本列島へ来るまでの間に入ったものと思われる。大体、インドから入ったものと、南洋から入ったものと、この2つは確かにある。その後に入ったのもあるかも知れません。こう思う。

 それから神社の建物のうちで、伊勢神宮は、これは簡素美の極致です。これはヤシの葉陰にいた頃が懐かしいという、その懐かしさの発露です。だから南洋の土人の家にどこか似ている。懐かしさが発露して簡素美の極致ができたんです。そうすると、他の神社の建築が伊勢神宮ほど美でないとすれば、そういう懐かしさの発露とは見られない。で、調べるべきものがある。建物の形式なんか構やしない。いけないものが、本質的にいけないものが入っている。

 インドから何が入ってるかというと、仏教は六道輪廻といっている。六道は皆、時間、空間の中にあります、空間の中にある。そのうちに天道というのがある。その天道の神、これと日本の神と混同してる。それが1つ確かにある。古来の神道の中に、天道の神が入っている。これは確かに入ってる。

 それから南洋、南洋には太陽神崇拝がある。で、一般にいって、これは自然教といわれるのです。伊勢の天照大御神は日本民族の心の太陽です。それを物質的自然界の太陽と混同してるんです。これは確かに入ってる、神道の中に。これは懐かしいも何もないから、神社が非常に美にならなかったという、いけない証拠です。確かに仏教の天道の神というのが入ってる。それから南洋辺の自然教が入ってる。これは是非取り除かなきゃいけない。

(※解説9)

 日本に古来から伝わる「古神道」、つまり純粋な「日本の心」の中に、不純物が混っているという岡の指摘である。

 先ず挙げているのは、日本民族がインドの沿岸を移動している時に、インドから入った仏教の「天道の神」がある。この「天道」とは六道輪廻の中では最上階の位置ではあるが、仏教にはその六道の上に「声聞、縁覚、菩薩、仏」の4階程があって、「天道」はそれに比べるとあまり高くはないのである。

 辞典で調べてみると、「天道」とは「人道の世界よりも苦がなく、楽の多い世界」とあるが、岡も録音の中で「天道とは何でも思うようになる世界」とか、「天道とは虫食いの柿が早く赤くなるようなもの」とか、「天道へ行けば地獄道へ逆落としが普通だ」とかいっていて、「天道」をあまり肯定的には見ていないのである。

 従って、この「天道の神」というのを岡の心の構造図に当てはめると、多分「第7識上層」か「第8識」ということになりそうである。ところが日本の神々は「第10識」の世界に住んでいると岡はいうのだから、その間には相当な開きがあるのは当然のことである。

 次に、日本民族が南洋の島々を経めぐっている時に混入したと思われる「南洋の神」であるが、岡はそれを「南洋の自然教」といっている。

 この「自然教」は基本的に自然物に霊魂や精霊が宿ると信じていて、それらに超日常的な「力」を感じるものである。しかし、ここで気をつけなければならないことは、日本では自然物に「情緒」や「風情」といった「情」を感じるのが一般的であるが、アジアの他の地域ではそれらに「畏れ、たたり、タブー」といった超日常的な「力や意志」を感じているのではないだろうか。

 だから一口に「自然教」といっても、その内容は大分違っているのであって、ここでも岡の心の構造図に当てはめると、第2の心の「意志の世界」は「第8識」ということになり、南方の自然教は日本の「第10識」の世界とは相当な開きがあるのである。

 それに関して、親日派の韓国人である呉善花(おそんふぁ)女史は著書の中で、日本の自然崇拝を「ソフトアニミズム」といって「ソフト」という言葉をわざわざ付け加えているが、そこには何か他の地域とは違う別種類の「アニミズム」を感じているのであって、彼女は本当は「情のアニミズム」と言いたいのではないだろうか。

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