(※解説10)
この辺から最晩年にかけて岡は、人物を評価するのに神々の「分身」という見方をするようになる。基本的に二神、天照大御神と天の月読の命の「分身」とみる見方が多いのだが、ここでは三神として古事記の冒頭に出てくる高御産日命を挙げて、これが芭蕉だというのである。
芭蕉の俳句は、自分が対象物になり切ることによって対象物の心を知るという「妙観察智」の働きの典型であるから、それが高御産日命だというのであろう。
そうすると同じように「無差別智」の見方から他の二神を見てみると、天照大御神は岡は「よろこび」といっているから「大円鏡智」。天の月読の命は「懐かしさ」といっているから「平等性智」ということになる。
さて、ここで岡は芭蕉を評して「柿本人麿なんて全然及ばない。あんな大文学は世界に今後も出ないでしょう」といって絶讃しているが、それでは近年評価が高まっている昭和の文豪といわれる人達を岡はどう見ているのか、録音の中から拾ってみた。
「今、ノーベル賞を僕にやらしたら井上靖。川端康成のようなのは白痴美ともいう。-省略-だけど白痴美も美には違いありません。例えば谷崎潤一郎は美じゃない」
岡の評価の基準がどれほど高いか、世間の見る目がどれほど低いかは、これで一目瞭然ではないだろうか。当時ノーベル文学賞を受賞した川端康成よりも、暗に文明の行き詰まりに警鐘を鳴らして「夜の声」を書いた井上靖を高く買うのである。
川端は「第1の心」の寂しさに耐えかねて自らの命を絶ったくらいだから、芭蕉のように「第2の心」の美がわからず、ただひたすら「第1の心」の美を追い求め行き詰まってしまったのである。
更に岡は、「谷崎潤一郎は美じゃない」というその理由は、多分谷崎の文学には岡が無明だと嫌う「性本能」が潜在的に働いているからではないだろうか。
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