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2015.04.23up

岡潔講演録(14)


「心そのもの、命そのもの」

【10】 芭蕉の評価

 それじゃあ、確かに神といえるのはっていうと、大体、2種類ありますね。まあ2種類あるっていいましょう。1つは伊勢の外宮はどなたを祀ってあるか。(あめ)月読(つきよ)みの(みこと)。これは「心そのもの」です。それから内宮は天照大御神(あまてらすおおみかみ)。この方は「命そのもの」です。それから、もう1人、高御産日神(たかみむすびのかみ)を挙げておきましょうか。つまり、こういう所では不必要なのあげない、できるだけ。

 高御産日神は「妙観察智(みょうかんざっち)そのもの」。といったら何かっていうと、心があれば直ちに形に現れるとしか思えないこと。そんなもん信じられないか。高御産日神は人と現れては芭蕉なんです。だから信じられる。これはみんな一度人にお現れになってるから、一度だけじゃありませんが。で、そういう風な神です。心の要素として絶対省けない神です三神入ります。それ、人に現れてます。一番わかりにくい、後はまあいいますが、後のニ柱は。高御産日神なんて、そんな神信じられるかって、芭蕉がそうです。

 芭蕉の俳句っていったら、そりゃ到底、柿本人麿なんて全然及ばない。それ皆わかってない。あんな大文学は世界に今後も出ないでしょう。それ1つ挙げて置いてみようか。で、芭蕉が高御産日命だと思います。人麿神社って造ったんだから、芭蕉神社って1つ造るべきだなあ人麿もまあ神といえますが、そりゃ芭蕉と比べたら比較にならん。伊賀の上野へでも芭蕉神社っていうのを1つ造ったら、これは正しい神だから、これが高御産日命だと思えばいい。

 いやあ、のちにもいいますが、楠木正成(くすのきまさしげ)は天の月読の命だと思う。楠木正行(くすのきまさつら)は天照大御神だと思う。だが、一度人にお生まれになってるから、これ、ひどくわかり良い。後ははっきり目覚めた人。それを挙げますと菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)、楠木正成、楠木正行、坂本龍馬、明治天皇。

(※解説10)

 この辺から最晩年にかけて岡は、人物を評価するのに神々の「分身」という見方をするようになる。基本的に二神、天照大御神と天の月読の命の「分身」とみる見方が多いのだが、ここでは三神として古事記の冒頭に出てくる高御産日命を挙げて、これが芭蕉だというのである。

 芭蕉の俳句は、自分が対象物になり切ることによって対象物の心を知るという「妙観察智」の働きの典型であるから、それが高御産日命だというのであろう。

 そうすると同じように「無差別智」の見方から他の二神を見てみると、天照大御神は岡は「よろこび」といっているから「大円鏡智」。天の月読の命は「懐かしさ」といっているから「平等性智」ということになる。

 さて、ここで岡は芭蕉を評して「柿本人麿なんて全然及ばない。あんな大文学は世界に今後も出ないでしょう」といって絶讃しているが、それでは近年評価が高まっている昭和の文豪といわれる人達を岡はどう見ているのか、録音の中から拾ってみた。

 「今、ノーベル賞を僕にやらしたら井上靖。川端康成のようなのは白痴美ともいう。-省略-だけど白痴美も美には違いありません。例えば谷崎潤一郎は美じゃない」

 岡の評価の基準がどれほど高いか、世間の見る目がどれほど低いかは、これで一目瞭然ではないだろうか。当時ノーベル文学賞を受賞した川端康成よりも、暗に文明の行き詰まりに警鐘を鳴らして「夜の声」を書いた井上靖を高く買うのである。

 川端は「第1の心」の寂しさに耐えかねて自らの命を絶ったくらいだから、芭蕉のように「第2の心」の美がわからず、ただひたすら「第1の心」の美を追い求め行き詰まってしまったのである。

 更に岡は、「谷崎潤一郎は美じゃない」というその理由は、多分谷崎の文学には岡が無明だと嫌う「性本能」が潜在的に働いているからではないだろうか。

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