(※解説1)
岡はアメリカの影響を受けた戦後の日本の社会通念を厳しく批判する。今日の我々は長い間「消極的な利己主義」に染っていて、利己主義を利己主義とも意識しない利己主義の中にいるというのである。
従って、我々は岡のこの発言を心して読んで、仲々気づかないその「消極的な利己主義」を深く反省することから始めるべきではないだろうか。
「戦争はいやだ。国のために命を捧げるのはまっぴらだ!」といっている人達も、「人類はいまだ野蛮なん!」と岡のいう人類の現状も認識していないし、ただただ個人の自由と幸福を主張するばかりで、それが取りも直さず「消極的な利己主義」だということにも気づかないのである。
さて、ここで問題になるのは「ユダヤ」という言葉である。岡は「民主的」という言葉に対して「ユダヤ的」という言葉を使い、「個人の幸福あるを知って、国あるを知らんのをユダヤ的という」とは誠に手厳しい表現である。
多分これは「新約聖書」の中の、キリストを迫害して十字架にかけたユダヤ市民の行状を指してのことではないかと思うのだが、岡は晩年「ユダヤ」については「ユダヤ型無明」という言葉をもってきたりして、「ユダヤ」に関しては極めて否定的である。
しかし、巷では以前から「日ユ同祖論」といって、日本とユダヤとはもとは同じ民族だという説もあるのだが、岡にすればそれは「とんでもない!」というに違いない。
その点についてはいろいろと議論はあるかとは思うが、少なくともユダヤの聖典である「旧約聖書」を読んでみると、私は非常な異和感を覚えるのである。その聖典はとても日本民族と「同じこころ」から生まれたものでないことだけは確かである。
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