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2015.06.11up

岡潔講演録(15)


「秋が来ると紅葉(もみじ)

【1】 消極的な利己主義

 個人主義は利己主義を生みます。どーしても利己主義を生む。利己主義のうちでポジティブなもの、自分中心にしか考えたり行為したりしない人がいる。人の目にもつきますし、自分の目にもつく。だから、まだ良いのですが、消極的な、ネガティブな利己主義が困る。

 自分と自分の周りの人達以外に対しては全く無関心である。それが困る。消極的な利己主義が誠に困る。今、日本は消極的な利己主義がほとんど行き渡ってしまっています。だから個人の幸福は考えますが、国家などというものは少しも考えない。

 ところが実際は、国家というものなしに個人の幸福などというものはあり得ないのです。こんなこと猿だって知ってる。また世界の各国民は皆知ってる。知らぬは終戦後の日本だけです。

 これに似た国民を求めますと、なかなか近い所にはいない。遡って、2千年近く遡りますと、一度ユダヤという国が滅びました。あの滅亡直前のユダヤ国民は今の日本国民に酷似しています。

 だから、今の日本国民は民主的だなどと思ったらとんでもない、ユダヤ的というべきです。個人の幸福あるを知って、国あるを知らんのをユダヤ的というのです。民主的とはいいません、そんなこと不可能ですから。ところで、なぜ、こういう事態に立ち至ったか。それを一番初めから詳しく申しましょう。

(※解説1)

 岡はアメリカの影響を受けた戦後の日本の社会通念を厳しく批判する。今日の我々は長い間「消極的な利己主義」に染っていて、利己主義を利己主義とも意識しない利己主義の中にいるというのである。

 従って、我々は岡のこの発言を心して読んで、仲々気づかないその「消極的な利己主義」を深く反省することから始めるべきではないだろうか。

 「戦争はいやだ。国のために命を捧げるのはまっぴらだ」といっている人達も、「人類はいまだ野蛮なん」と岡のいう人類の現状も認識していないし、ただただ個人の自由と幸福を主張するばかりで、それが取りも直さず「消極的な利己主義」だということにも気づかないのである。

 さて、ここで問題になるのは「ユダヤ」という言葉である。岡は「民主的」という言葉に対して「ユダヤ的」という言葉を使い、「個人の幸福あるを知って、国あるを知らんのをユダヤ的という」とは誠に手厳しい表現である。

 多分これは「新約聖書」の中の、キリストを迫害して十字架にかけたユダヤ市民の行状を指してのことではないかと思うのだが、岡は晩年「ユダヤ」については「ユダヤ型無明」という言葉をもってきたりして、「ユダヤ」に関しては極めて否定的である。

 しかし、巷では以前から「日ユ同祖論」といって、日本とユダヤとはもとは同じ民族だという説もあるのだが、岡にすればそれは「とんでもない」というに違いない。

 その点についてはいろいろと議論はあるかとは思うが、少なくともユダヤの聖典である「旧約聖書」を読んでみると、私は非常な異和感を覚えるのである。その聖典はとても日本民族と「同じこころ」から生まれたものでないことだけは確かである。

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