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2015.06.11up

岡潔講演録(15)


「秋が来ると紅葉(もみじ)

【2】 ショーペンハウエルの意志

 日本人は明治以降、欧米人の、まあアメリカは戦後ですが、戦前はヨーロッパ人の思想を非常に受け入れて、そしてそれを基にしてる。そのうち、西洋人の思想の2つの柱は自然科学と、もう1つは西洋哲学です。自然科学については申しました、今いったように。これ、過信されると困るんです。

 西洋哲学の方ですが、19世紀のドイツの大哲学者にショーペンハウエルという人があります。この人の主著を明治44年に姉崎嘲風(あねさきちょうふう)先生がお訳しになって、それが出てますが、「意志と現識としての世界」という表題で、2千ページ程の本です。「現識」というのはもとのドイツ語はVorstellung。これはどういう意味かというと、ギリシャ人や欧米人の脳髄に映った世界像という意味です。

 で、ショーペンハウエルはこの2千ページほどの大部の本のほとんど全部を使ってギリシャ人や―ああ、それから「意志」というのは、かようなギリシャ人や欧米人、だからショーペンハウエルの考えている人に、かような世界像あらしめているのは、その背後に唯一絶対の意志があるからだと、ショーペンハウエルこう思っているんです。「こう思って、いろいろやるということが私の形而上学だ」と、そういってます。そう思ってるんですね。

 ところで、ショーペンハウエルは2千ページの大部分を費やして、世界像を克明に書いていますが、これを見ますと、「まあ何と汚い 何という汚い世界だろう。まるで泥沼の底のようだ」と思います。読んでいるだけでも息が詰まりそうな気がします。

 この本は良い図書館にはあると思いますから、一度本当にお読みになってごらんなさい。まあなんと酷い世界像だろう まさか、世界をこんなものだと思っているとは、欧米人が、知らなかった。ギリシャ人もそうだっていうんですが、これをもういっぺん知るべき。想像もつかんのです。まさか、あんなことをいってるとは。

 それで結局、ショーペンハウエルはこう結論してる。「この唯一絶対の意志を退け去って、そうすれば自分は死ぬし、それだけじゃなく世界はなくなる。この唯一絶対の意志を退け去って、こんな世界はなくしてしまうのが一番道徳的だ」と、こう結論してる。

 ここまで徹底できるのは偉いと思います。そこだけは見習うべきでしょう。しかし、どうしてこんな酷いことになったのかといいますと、ギリシャ人や欧米人は第1の心だけを知って、第2の心のあることを知らないからです。

(※解説2)

 日本の哲学者の中で、ショウペンハウエルをこんな風に読んだ人などいないに違いない。岡がこうして指摘してくれていなければ、我々はいつまでも西洋がどういう性格の文明なのか、一向わからないままではなかっただろうか。ここは西洋文明の本質をつかむ上で、非常に重要なところである。

 私は生まれてから今日に到るまで、心の根底は「情」であるのは当然であると暗に思ってきたのだが、戦後の日本社会は「力」だ「根性」だといって、「意志」を重視してきたように思う。そし私は、長い間そのギャップに思い悩んできたのである。

 ところが「人には心が2つある」という岡に、「ショウペンハウエルが西洋の心の根底は意志だといっている」と教えてもらった上に、私が自らの心の根底が「情」だと再認識して初めて、岡のいう「2つの心」の構造が完全に腑に落ちたのである。つまり、西洋の「第1の心」の根底は「意志」であり、「第2の心」の根底は私が思っていたように「情」であると。

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