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2015.06.11up

岡潔講演録(15)


「秋が来ると紅葉(もみじ)

【12】 欧米人の潜在識

 ところでポアンカレーですが、ポアンカレーがなぜこんな風になるか。つまり欧米人は大体、なぜこんな風になるかといいますと、さっきもいいました通り、欧米人は普通はまあ理性を一番使いますが、理性といえば妄性と邪性が入りますね。で、邪智型平等性智。

 ところでポアンカレーの場合は邪性は取れてるんです。妄性だけが残っている。私これ、キリスト教のお陰というように思う。多分、一度か二度天国へ行ってきている。そうしたって妄性は取れません。しかし、邪性は取れる。邪性取れてる。

 邪性取れて、妄性だけ残ってますとね、人は生まれて3カ年の間、これを童心の季節というんですが、この時は自我は全くない。で、4年目になりますと自我の外郭ができる。これから時間空間の枠の中に入ります。それから第5年になりますと、これは自分の意欲、自分の感情というのがわかってくる。それで自他の別がつく。

 それで人の中核は童心3カ年でできちもう。それからあとは皆着物だと思ってよい。その着物のうちで脱ぎにくいものが2枚ある。1枚が自他の別、2枚目は時空の枠。

 ところでキリスト教の天国へ行ってくると、自他の別は取れてる。が、時空の枠は残ってる。時空の枠は残ってるものですから、童心の季節っていったら心そのものですから、そんな風にはやれない。頭頂葉の世界が童心の季節だからですが、そこへは行けない。やはり前頭葉の影ですね、時空の枠がありますから。

 で、そんな風だから、無心に研究するということはできない。無心というのは全く取れてしまう、頭頂葉の世界のことだから。そんな風だから、ポアンカレーの研究の仕方は研究に没頭するということは多分ない。そうした時、どうして創造ができるのか、私にはわかりませんが、しかし、ともかく創造の仕方は頭頂葉に実った創造自体を見るんではなく、その影を前頭葉で見てるのだということはわかります。

 胡蘭成さんは、胡蘭成さんて、ご存じない方もあるかも知れない。日本に20年程おられる中国の方ですが、胡蘭成さんは「日本人なんかは悟り識が開けているから、悟り識ったら頭頂葉ですね、それで創造できる。欧米人は潜在識で創造するんだ」と、そういってられますが、本当に潜在識なのか、よくわかりませんが、一度無明を通るでしょう。だから何がどう働いているんかわからんけれども、できるんでしょう。

 こんなん、理性的努力をしてから1年も1年半も放って置いたらなぜできるのか、私やってきたことはないから知りませんが、潜在識だっていうのはわかりますし、そうすると影しかわかりませんから。この、会取するんですね、頭頂葉へ実ったものを、頭頂葉で見ますと。一種のわかり方でわかる。で、それでないということもわかる。

(※解説12)

 「ポアンカレーはキリスト教の天国へ行ってきている」と岡はいっているが、西洋の天才達は大概そういう人達のようである。岡は「キリスト教国には天国と地上を結ぶエレベーターがあるから」といっている。

 そのためか、ポアンカレーには時空の枠である「妄性」はいまだ残ってはいるが、自他の別である「邪性」は既に取れているから、自我(第7識)が非常に薄くなっている。だから「潜在識」が働きやすいのだろう。

 中国哲学では胡蘭成がいうように、心の世界を顕在識、潜在識、悟り識と別けていて、仏教の唯識論に対比すると顕在識がマナ識(第7識)、潜在識がアラヤ識(第8識)、悟り識がアンマラ識(第9識)という位置づけになる。

 しかし、そのポアンカレーの発見は、前章で触れたように2つの条件が欠けているのだから、東洋人である胡蘭成にいわせれば、悟り識(第9識)の一格下の潜在識(第8識)で発見をしているということになるのだろう。

 しかし、岡から見れば日本人は第10識(真情の世界)に既に到着している人がいるから、日本人の発見は第9識ではなく、第10識で行われているということになりそうである。その証拠が、岡の経験した「発見の鋭い喜び」と「疑いを伴わない」の2つであるといえるのである。

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