「秋が来ると紅葉」
【11】 アルキメデスとポアンカレー
ところが私、ポアンカレーのいったような発見の仕方で、数学上の発見を度々やりましたが、それによりますとポアンカレーが挙げてる以外に、更に2つの特徴を持つ。ポアンカレーはそれは書いてない。
1つは、発見には必ず「発見の鋭い喜び」が伴う。この「発見の鋭い喜び」という言葉は物理の寺田寅彦先生の言葉です。だから先生もご体験がおありなんでしょう。
この「発見の鋭い喜び」の一番よい例はアルキメデスです。アルキメデスは風呂に入ってる時発見した。で、「わかったあ!!」っていって裸で街をとんで帰った、自分の家まで。この、狂喜乱舞した。2千年を隔てての「発見の鋭い喜び」が目に見えるようでしょう。これが「発見の鋭い喜び」。これをポアンカレーは書いてない。
もう1つは、これは疑いを伴わない。これは説明しなきゃあわかりませんが、決して疑いを伴わない。これが一番の特徴じゃないかと思います。私、1つの数学上の発見をした。その発見の仕方っていうのは、どんな風にわかったか。結果だけがはっきりわかった。そして、どういう道を通ってそこへ行ったかはわからない。だから結果はわかるん。が、証明はわからない。そんな風な発見の仕方。
ところが、その時の発見は非常に重要だと思われたから、それで、そこがそうだということが発見されると、その付近にどんな風な影響が及ぶかということを先に調べた。それを調べるのに9ヶ月ぐらいかかりました。それを済んでから論文を書いた。その論文を書く時、初めて証明した。
だから、それまでの間は証明抜きで、そうであるということは信じて疑わなかった。この決して「疑いを伴わない」ということが、多分一番大きな特徴です。ところがポアンカレー全然それを書いてないだけじゃなくて、その反対のものとしてこんなこと書いてる。「証明の隅々まではっきりわかった」と。全然、不必要なこと!疑い伴わない。
ところで道元禅師、こういってる。「明らかに会取()すれども」、「会取」っていうのは「会う」という字と「取る」という字ですが。「明らかに会取すれども、鏡の影を映すが如くにはあらず。一方を明()らむれば、一方は暗し」。
証明の隅々までわかるというのは前頭葉でわかるんです。そうすると鏡にどう影が映ってるかなあと見たようなもの。だからポアンカレーの発見たるや、さぞや暗い発見であった、テレビに書いちまったらわかりませんから。
しかし研究の途中で発見するということは灯を点すということで、その灯の明るさによって研究自体は随分変わりますね。論文に書けばいっしょですけどね、テレビもですが。だからポアンカレーの発見はあんまりいい発見の仕方じゃあない。つまり、会取すべきです。そして鏡の影を映すが如くせずに、灯の明らかな間に付近を見て回るべきです。
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