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2015.06.11up

岡潔講演録(15)


「秋が来ると紅葉(もみじ)

【11】 アルキメデスとポアンカレー

 ところが私、ポアンカレーのいったような発見の仕方で、数学上の発見を度々やりましたが、それによりますとポアンカレーが挙げてる以外に、更に2つの特徴を持つ。ポアンカレーはそれは書いてない。

 1つは、発見には必ず「発見の鋭い喜び」が伴う。この「発見の鋭い喜び」という言葉は物理の寺田寅彦先生の言葉です。だから先生もご体験がおありなんでしょう。

 この「発見の鋭い喜び」の一番よい例はアルキメデスです。アルキメデスは風呂に入ってる時発見した。で、「わかったあ!!」っていって裸で街をとんで帰った、自分の家まで。この、狂喜乱舞した。2千年を隔てての「発見の鋭い喜び」が目に見えるようでしょう。これが「発見の鋭い喜び」。これをポアンカレーは書いてない。

 もう1つは、これは疑いを伴わない。これは説明しなきゃあわかりませんが、決して疑いを伴わない。これが一番の特徴じゃないかと思います。私、1つの数学上の発見をした。その発見の仕方っていうのは、どんな風にわかったか。結果だけがはっきりわかった。そして、どういう道を通ってそこへ行ったかはわからない。だから結果はわかるん。が、証明はわからない。そんな風な発見の仕方。

 ところが、その時の発見は非常に重要だと思われたから、それで、そこがそうだということが発見されると、その付近にどんな風な影響が及ぶかということを先に調べた。それを調べるのに9ヶ月ぐらいかかりました。それを済んでから論文を書いた。その論文を書く時、初めて証明した。

 だから、それまでの間は証明抜きで、そうであるということは信じて疑わなかった。この決して「疑いを伴わない」ということが、多分一番大きな特徴です。ところがポアンカレー全然それを書いてないだけじゃなくて、その反対のものとしてこんなこと書いてる。「証明の隅々まではっきりわかった」と。全然、不必要なこと疑い伴わない。

 ところで道元禅師、こういってる。「明らかに会取(えしゅ)すれども」、「会取」っていうのは「会う」という字と「取る」という字ですが。「明らかに会取すれども、鏡の影を映すが如くにはあらず。一方を(あき)らむれば、一方は暗し」。

 証明の隅々までわかるというのは前頭葉でわかるんです。そうすると鏡にどう影が映ってるかなあと見たようなもの。だからポアンカレーの発見たるや、さぞや暗い発見であった、テレビに書いちまったらわかりませんから。

 しかし研究の途中で発見するということは灯を点すということで、その灯の明るさによって研究自体は随分変わりますね。論文に書けばいっしょですけどね、テレビもですが。だからポアンカレーの発見はあんまりいい発見の仕方じゃあない。つまり、会取すべきです。そして鏡の影を映すが如くせずに、灯の明らかな間に付近を見て回るべきです。

(※解説11)

 古代ギリシャのアルキメデスの発見には「発見の鋭い喜び」があったが、近代西洋のポアンカレーにはそれがない。そればかりか、岡の発見のように「発見に疑いが伴わない」ということもなかったらしい。その2条件が欠けているため、「ポアンカレーの発見はあんまりいい発見の仕方じやない」と岡はいうのである。

 ポアンカレーというと今でも岩波文庫に何冊か著書が挙がっていて、西洋の科学者としては代表的人物であるが、岡はそのポアンカレーを捕まえて、そう断言するのである。

 今日の脳科学の通説とは裏腹に「発見は前頭葉でなく頭頂葉で行われる」と岡はいうのだが、その頭頂葉での発見のメカニズムを日本人である道元禅師は800年も昔に既に知っていたとみえて、「会取する」という言葉で表現しているのである。

 一方、20世紀になって唯一独自に大脳生理を解明した岡は、その頭頂葉に実った数学的発見の有様を頭頂葉でじかに見るべきであって(これが会取)、ポアンカレーのように頭頂葉から前頭葉のスクリーンに投影された影を見るべきではないというのである。

 ともかく、我々日本人の創造的発見には「発見の鋭い喜び」と「疑いを伴わない(疑いを断つ)」という2つの大きな特徴があるのだが、これは日本人の学問や芸術など文化活動全般を見てみても、それがよく現れているのではないだろうか。

 「数学」というと、人の頭脳の最も基本的な働きの産物であるから、岡にこういう風に証言してもらうと、我々日本人の文化活動にも一段と自信と誇りが持てるのではないだろうか。

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