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2016.05.16up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【16】 無差別智②

 ところで、西洋人というのは、まことにのんき。彼らは植物を見た。そうすると、植物には葉がある。葉には葉緑素がある。葉緑素は日光にあたると、同化作用を営んで、空気中の炭素と水の中の水素から含水炭素というものをつくる。植物のからだはこの含水炭素によってできている。そういうことを見て、これで植物は全部わかったと思う。まことにのんきですが、日本人はそのとおり理科で教えている。それから、それ以外については一向考えようともしない。

 で、その含水炭素ですが、不思議なのはそれから後です。松のつくった含水炭素は一滴一滴どこへどう使われても松になるでしょう。また、竹のつくった含水炭素は一滴一滴どこへどう使っても竹になるでしょう。なぜか。なぜだと思います。この問題ですよ。含水炭素が問題じゃないんですよ。

 これは、動物でなければ持っていないのは第1の心だけである。第2の心は植物でも持っているんです。それから人が高等な生物であるというのは、その第1の心が高等だという意味です。ところで、第1の心、これ仏教は無明だといっているのですね。あかりがない。無明というのは生きようとする盲目的意志のことだと弁栄上人がいわれた。ともかく第1の心は第2の心を月だとすると、この月の光を隠す黒雲のようなものなんです。つまり第1の心があれば、第2の心は働きにくい。それが高等であればあるほど、ますます第2の心は働きにくい。こうなる。

 ともかく松や竹、植物でも第2の心はあるんです。だから、これに大円鏡智が働くんです。つまり松が松らしいのは、松の個性、竹が竹らしいのは竹の個性です。こんなふうに植物のときは、第2の心だけで、第1の心がないから、1本1本に個性があるというふうにはならない。松という、竹という種類が個性を持つというふうになる。人の場合は1人1人が個性を持つというふうになる。たとえば芭蕉の一言一句みな芭蕉です。松が松らしいのと同じことですね。

 で、大円鏡智の働き、これが個性というものである。そしてこれが松の松らしきは、松の創造。竹が竹らしきは竹の創造。芭蕉が芭蕉らしきは芭蕉の創造。そんなふうになるんですね。それはほかにも働きますが、何よりも大円鏡智が働く。松が松らしくなるのを創造という。松のときは種類だけ。人の場合には、第1の心があって、それが分化しているから、個人個人みな創造、個性がある。それが外に発現すれば、これ創造。創造という言葉は当たらない。これは西洋人の言葉です。

(※解説16)

 これから無差別智の具体的な説明に入っていくのだが、現在の仏教のどの宗派も不思議なことに、この無差別智についてはほとんど言及していないようである。

 ましてやその無差別智を、岡は1つ1つ具体的な例をあげて説明しているのだから、ここもやはり他の分野と同じく人類にとって唯一の文献となりそうである。

 また、これが4、5百年つづいた自然科学にかわる、これからの人類にとっての真に科学的理論の出発点ともいえるものであって、我々は今後このような「眼」をもって大自然をつぶさに見直していかなければならないのである。

 大体、今日の自然科学で説明しきれないものは数多くあるはずだが、そのほとんどはこの無差別智に帰着しそうである。その1つの象徴的な岡の言葉が「含水炭素が問題じゃないんですよ」であって、ここに現在の自然科学の限界がいみじくも露呈していると私は思うのである。

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