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2016.05.16up

岡潔講演録(18)


「創造の視座」

【17】 リンパ細胞

 人が学問できるというのは、大円鏡智の働きによる。それから人に理性が働くのは、その源は平等性智あるによる。人が認識できるのは、認識とはものの心を知ることである。つまりそのものの全体における位置を知ること、ものの心を知ることである。人が認識できるのは、その源は妙観察智あるによる。人が感覚できるのは、その源は成所作智あるによる。これはもうすでに申しましたね。

 ところで、たとえば医学ですが、医学は頭のこともさっぱりわかっていないが、それ以上いろいろわかっていない。問題がつぎつぎに出てくる。たとえば内臓の移植というふうなことをやり出した。そうすると、リンパ細胞がある。心臓なら心臓移植しますと、リンパ細胞が心臓を攻撃する。つまり他の個体からきたタンパク質をリンパ細胞はよく識別して攻撃する。これを拒否反応というのですね。

 リンパ細胞に他の個体のタンパク質であるか、自分のからだのタンパク質であるかの識別がどうしてできるのだ、不思議であるといって病理学は、考えている。これはからだ全体からいうならば大円鏡智が働いているからである。つまり人の食べてできた血は一滴一滴どこへ使われても、その人になる。大円鏡智。

 また、リンパ細胞の立場からいうなら、部分と全体との関係。つまりものの心がわかる、認識力が働いて。そういう見方で見るなら、これは妙観察智の働きです。リンパ細胞からいえば、妙観察智の働きで認識する。人のからだからいうなら、これは大円鏡智が働いているから、そうなる。

(※解説17)

 ここはリンパ細胞の不思議について説明がなされたところである。先の「含水炭素」と同じようにいうならば、「リンパ細胞が問題じゃないんですよ。同じリンパ細胞の自他の別の方が問題なんですよ」と岡はいうに違いない。

 岡は別のところでこういっている。「ところがリンパ細胞に、いかにしてタンパク質の自他の別がわかるのだろうか。それを識別することができるのだろうかという問題があって、今病理学は非常に不思議がってるんだけど、これは解決しそうもありません。どうせ第2の心と無差別智を取り入れなきゃ、こんなもの解決するわけががない」。

 自然科学はこういうところに完全に目を塞いでいるのではないだろうか。物質としてのリンパ細胞しか問題にしないのである。これではリンパ細胞の正体を把握したことにはならないのではないか。

 猶、この問題が病理学の世界で存在することを岡に伝えたのは、岡の従兄弟であり新潟大学の学長であった北村四郎である。その時の言葉は「潔さん、わからんなあ。リンパ細胞はタンパク質の自他の別をどうして識別するのだろう。もう何もわからなくなってしまう」というものであった。

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