岡潔講演録(19):「1971年度京都産業大学講義録第5回」解説:【9】西洋人の限界
岡潔講演録(19)
「1971年度京都産業大学講義録第5回」
胡蘭成さんの話、してしまいますが、有(う)の第一の階梯が『生(せい)』でしょう。それから『命(めい)』でしょう。第三の階梯が『悟(ご)』だという。
生物が次に人になって、そして人に悟りが開ける。ここまで来て次の階梯ですね。日本民族、漢民族、それからインド人もそうでしょう。ああ云うのはみな悟の位まで進んでる。しかし西洋人は悟りがひらけてない。そう云うんです。そうすると西洋人は今後ながくかかれば悟りが開けますかと、胡蘭成さんに聞いてみた。いや、決して開けない。一度悟り損なったらもう駄目だ。永久に悟りは開けない。生から命になろうとして成り損なったのがビールスで、命から悟になろうとして成り損なったのが西洋人だ。胡蘭成さんはそんなふうに云ってる。
ここは甚だ意味深長で、取り上げるには多少躊躇するところなのだが、「命から悟になろうとして成り損なったのが西洋人だ」 とは誠に手厳しい。そこまでいわなくてもと私は思うのだが、胡蘭成はそう断言するのである。
岡は晩年、西洋人が「第1の心」つまり第7識(自我の世界) を超脱するには少なくとも10万年はかかるといっている。この点、「西洋人は永久に悟れない」 という胡蘭成とは、多少見方が違うようである。
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