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2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【10】 ビールス病

 ところがね、日本は今どんなふうかと云うと、日本は今『産業国家』。産業国家というものが日本に来て非常によくはびこっている。産業国家と云うのは、これはもう云うまでもなく唯物主義。どこから来たかと云うと、アメリカから来たんですね。産業主義と云うビールスが日本に来てる。

 で、日本は生きていますから、勤勉でもあれば器用でもあれば、それから1つになって働くということを喜ぶ。心を1つにして働かすと非常によく働く、喜んで働く。これはみな生きていると云うことですね。真如から来る。

 で、生きていますから、産業主義と云うビールスが非常によく繁殖した。ところが日本は生きてはいますが、まだ生きてはいますが、この産業主義という物質主義のビールスに取りつかれてしまった。それで今の大抵の人の生き方は、訳もわからずにただ忙しく生きている。もはや人としての生き方ではない。ビールス的生き方ですね。

 そうすると日本は今、アメリカ産のビールスに取りつかれた病気にかかってる。こう云うことになる。なるほど西洋人とビールスとは非常に似ている。まあ、そう思った。訳もわからずにただ忙しゅうしてます。こんな生き方は人の生き方じゃありません。

 こういうふうなんですね。これはビールスのために病気になってる生き方であって、本当に生きているんではない。1日1日をこんなふうに暮らしたらいけないこと勿論だし、唯物主義、個人主義は非常に悪い。なかんずく唯物主義が個人主義と云う―― 個人主義と云うのは唯物主義の特殊な形です。生物が生物であってビールスでないのは全の上の個だからです。単なる個だったらビールスです。この全との連携を絶ってる。こうなったらもう、1つも楽しいことはなくなるんですね。一番悪い。

 産業国家だけではありません、自我を主人公として生きるのが自主的な生き方だなどと云うのは、これはやっぱりビールス病です。そうすると生命の根源から命の水が湧き出ると云うことはなくなる。自我から命の水が湧きますか 一寸考えてご覧なさい。自我を押し通そうとして、足を踏まれた犬のようにキャンキャン云い合ってる姿を横から見てご覧なさい。そんなところから命の水が湧きますか。湧くはずがない。

(※解説10)

 ここは戦後の日本社会、つまり高度経済成長時代を「ビールス病」 にかかって、「もはや人としての生き方ではない」と岡が批判したところである。

 岡は「産業」は江戸時代ぐらいに戻すべきだとの持論であるが、江戸時代はご承知のようにほとんどのものが「自給自足」であり、産業の形態としては「家内工業」が主流を占めていたのである。

 日本を訪れた西洋人が小規模ながらも、その産業の種類の多さと製品の豊かさと美的感性の素晴らしさに驚嘆したという話をよく耳にする。

 それは渡辺京二著「逝きし世の面影」、その他西洋人の旅行記に多く残されているが、その家内工業の製品を1つ1つ紹介したものには柳宗悦著「手仕事の日本」も有名である。

 そこには内面的に見れば、今では失われた「無心」 になって働く「手作りの喜び」と、「確かに人の役に立っている」という実感があったに違いないのである。

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