okakiyoshi-800i.jpeg
2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【12】 彗星と遊星

 世界全体、特に若い人達が生きているということに望みを失なってる。その症状を詳しく説明すると、病理を説明すると、こんなふうなんです。それで全の上の個として生きるにはどう生きるのがよいかと云うこまかい注意ですね。

 ともかく、生物になろうとして成り損なったビールスにしろ、悟った人になろうとして成り損なった西洋人にしろ、共通のところがある。惑星が志を立てて遊星になろうとする。それが上手くなれればそれでよい。成り損なったものに『彗星』というものがある。

 彗星と云うのは、独自の行動を起こすということにのみ気がいってしまって、その1面に偏して元のものとの連携を、つまり太陽と連携を保つ『太陽とのつながり』、これを非常に軽くみてしまったんですね。それでほとんどハイパーバラ(放物線<編者注>)のような軌道にのって、楕円形の軌道にのらない。これに似てる。遊星独自の動きということも大事だし、太陽との引力ということも大事だし、2つ寄って遊星は軌道にのる。その太陽との引力、つまり元のものとのつながりを忘れたんですね。

 で、唯物主義は間違い。唯物主義の害の1番ははなはだしい形が個人主義。そうすると問題になるのは自分です。

(※解説12)

 岡は喩えがうまいのだが、彗星と遊星とはおもしろい表現である。遊星とは太陽など恒星のまわりを回る惑星のことである。ビールスのごとく独自の行動と、「全の上の個」の行動がうまく調和しているのが遊星だと岡はいいたいのである。

 戦後アメリカから入ってきた「個人主義」は、人と自然から完全に独立した個人があるという世界観であって、東洋思想が説くように人と人、人と自然とが実は目では見えない心でつながっているという思想を無視したまま、ビールスのごとく独自の行動と自己主張に明け暮れたのである。

 その結果は今我々が見るように、家族や社会の絆は失われ、孤立化し乾ききった社会が生まれたのである。特にあれから50年、当時若者だった今の老人の老後は寂しいものである。かわいい孫の顔も見れず、気ごころの知れた嫁の世話にもなれず、人々が分断されて暮さなければならない社会が出現したのである。岡は今に必ずそうなると、口を酸っぱくしていったのだが。

Back    Next


岡潔講演録(19)1971年度京都産業大学講義録第5回 topへ


岡潔講演録 topへ