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2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【13】 夢と小説と幼児

 釈尊は『諸法無我』と云ってます。諸法無我と云うのは、自分というものは無いのだ、どこを捜しても無いのだ、そういう意味です。その自分とは小我のことです、自我のことです。

 で、ここを詳しく見ようと思います。あなた方、『小説』を読むでしょう。小説を読んでる時にはいろんな人が出てくる。その皆が皆までじゃありませんが、そのいろんな人が自分だと思って読んでるでしょう。なにも主人公だけを自分だと思うんじゃない。副主人公なんかも自分だと思って読んでるでしょう。

 だから『自分は固定されてない』。ある時はある人が自分であり、他の瞬間には他の人が自分。そんなふうに読むから小説は面白いんでしょう。読みふけってたら自ずからそうなってるでしょう。だから人には小説を読むという能力がある。そのとき自分の位置は一定しない。

 もう1つ『夢』というものがある。夢には時として自分が出てくることがある。しかし多くの場合、自分は出てこないんです。何か夢に夢の主人公というようなものがある。それも固定されていない。そしてそれが主人公になってるその瞬間には、その人の心という方向から夢をみてる。心が実に巧みに情緒の色どりで描かれてる。

 じゃもう1つ赤ん坊。『幼児』。幼児の遊び方をみてもその通り。自分というものをさまざまの位置に移して、そうしてその瞬間瞬間にひたりきっています。これを通じてみて、

  『人は心の様々な位置に身を置くことが出来る』

 この位置を指して『自分』と云う。

(※解説13)

 「固定されてない自分」の例として岡はここで3つをあげているが、私もそれに関して思いつくことがある。日本社会にはこの要素が実に多いのであって、日本人の特技の1つではないかとさえ思うのである。

 先ず日本人どうしの会話の中でも「自分はどう思う?」とかいって、相手のことを「自分」というのである。小さな子供に対しては「ボク」ともいう。家族の中では自分の位置からではなく、最年少者の位置から相手を呼ぶこともある。父親や母親の位置から「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」などと。これらも「固定されていない自分」の好適例である。

 また、「日本の物作り」でもそうである。前回の「創造の視座」の25でもいったのだが、日本の伝統産業を見ればよくわかるように、日本人は素材の立場やそれを使う人の立場にいとも簡単に身を置くことができるから、世界が注目するああいった素晴らしい「物作り」が可能なのである。これもいってみれば「固定されていない自分」の現れである。

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