「1971年度京都産業大学講義録第5回」
【13】 夢と小説と幼児
釈尊は『諸法無我』と云ってます。諸法無我と云うのは、自分というものは無いのだ、どこを捜しても無いのだ、そういう意味です。その自分とは小我のことです、自我のことです。
で、ここを詳しく見ようと思います。あなた方、『小説』を読むでしょう。小説を読んでる時にはいろんな人が出てくる。その皆が皆までじゃありませんが、そのいろんな人が自分だと思って読んでるでしょう。なにも主人公だけを自分だと思うんじゃない。副主人公なんかも自分だと思って読んでるでしょう。
だから『自分は固定されてない』。ある時はある人が自分であり、他の瞬間には他の人が自分。そんなふうに読むから小説は面白いんでしょう。読みふけってたら自ずからそうなってるでしょう。だから人には小説を読むという能力がある。そのとき自分の位置は一定しない。
もう1つ『夢』というものがある。夢には時として自分が出てくることがある。しかし多くの場合、自分は出てこないんです。何か夢に夢の主人公というようなものがある。それも固定されていない。そしてそれが主人公になってるその瞬間には、その人の心という方向から夢をみてる。心が実に巧みに情緒の色どりで描かれてる。
じゃもう1つ赤ん坊。『幼児』。幼児の遊び方をみてもその通り。自分というものをさまざまの位置に移して、そうしてその瞬間瞬間にひたりきっています。これを通じてみて、
『人は心の様々な位置に身を置くことが出来る』
この位置を指して『自分』と云う。
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