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2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【14】 妙観察智の自分

 人本然の生き方において、自分と云えば現在心を集中しているその場所、それを云うんです。この自分は何かと云うと『妙観察智の自分』。道元禅師は「本来の面目」と題して次のような歌を詠んでるということを云ったと思いますが、

 春は花夏ほととぎす秋は月

  冬雪さえて冷しかりけり

 これは矢張り、実際そうするには妙観察智を使うのです。花を見てる時は花になって花を見、時鳥を聞く時は時鳥になって時鳥を聞き、月を見るときは月になって月を見、雪を見るときは雪になって雪を見る。

 これが人と大自然との1番普通なつながり。こういうことが出来るのです。こういうふうに外界とつながっているから、赤ん坊は常に第3者から見て幸福に見える。赤ん坊自身は幸福を意識しませんが、幸福に見える。また夢はいかにも面白い。また小説を面白く読むことも出来る。

 みんなこの自分をこう見てる。自分というものはあるにはあるが、時と場合とによって位置を変える。固定されてない。それを諸法無我と云うんです。

(※解説14)

 「第2の心」には2つの要素があると、岡は次のように説明している。

 1つは真の自分というもの。真の自分というものは無始の始め(始めなきの始め)から、今に到る まで生き通しの自分が真の自分です。(これを仏教では真我というのだとよく岡はいう)。それが常にあるかといったら、ある時は非常にあるんですが、全然ない時と2色ある。

 もう1つがこの妙観察智の自分。例えば笹本上人(弁栄上人の弟子)がペンを走らせている時、ペンの先に自分がいることがわかって大変うれしかったと書いておられる。これが妙観察智の自分。関心が集まるところに自分がいるという自分。

 だから絶えず変わっている自分(妙観察智の自分)と不変の自分(真の自分、つまり真我)とに「第2の心」は別かれる。そして最後に肉体とその機能とが自分だと思っている「第1の心」が追加される訳であるが、これは「自己中心」という妄想の出発点になる自分である。

 岡は概略こういっている。ではなぜ岡の数学は西洋の数学者達が驚いたように、とても1人の数学者の成果とは思えないくらい多岐にわたっているのか。また晩年の思想までいくと尚更で、前回の「創造の視座」でもおわかりと思うが、その様相を更に深めているのである。

 これが「妙観察智の自分」の典型的な例であって、関心の集まるところに「妙観察智の自分」が1人ずついて、それらが有機的につながっているから、多岐にわたる真理の解明が総合的に深められていくのである。

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