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2016.08.29up

岡潔講演録(19)


「1971年度京都産業大学講義録第5回」

【15】 胡蘭成の失望

 胡蘭成さんは筑波山で塾を開いてる。そして論語なんか講義してた。その時1人の青年に目をつけた。非常によく出来ると言って、非常によく出来るじゃない、有望だ、行いなんか聞いたんでしょうな、そして望みを(しょく)してた。

 ところが何かの折に、その青年が『梅と桜の区別』がわからないということに気が付いた。で、そのことと次のこととどうつながってるのか知りませんが、こんなふうではいくら教えたって駄目だ、そう思ったらしい。

 それでこの頃では、筑波山の塾は到底ものにならない。しかし日本には有望な青年がいると、そう云ってますが、ともかく梅と桜の区別がわからんと云うのは、それくらい失望すべきことなんです。梅と桜の区別というのは、これは感覚の区別では気がつかない。情緒が違う。情緒が全く違うんです。梅は梅の情緒、桜は桜の情緒、似たところもない。だけじゃない、梅の情緒も非常に心を引く、桜の情緒も非常に心を引く。だから見誤るなどということは、これは金輪際あり得ない。

(※解説15)

 老子のいう「如」とは「らしさ」のことであり、「らしさ」とは「情緒」のことであると岡は「嬰児に学ぶ」の中でいっているが、これは大変ヒントになる。

 その「情緒」は時間的にはビッグバーンがはじまる天地開闢(てんちかいびゃく)より前にあるというのだから、それを空間的にいいなおせば物事の根本は、岡のいう「情緒」にあると老子はいっていることになる。

 その梅と桜のもつ「情緒」が識別できないというのは、最も根本的な認識力が欠如しているということになるのである。だからこれが胡蘭成の失望の意味するところではないだろうか。

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