(※解説6)
「如が天地開闢より前にある」とはどういうことだろう。西洋流の世界観に直していえば、ビッグバーンがはじまる前ということである。ビッグバーンはあくまでも時間空間のなかの出来事であり、目に見える物質の世界の外のものではないのであるが、「如」とはそれ以前の時間空間を超越したものという認識が老子にはあるのである。
つまり、これが日本や東洋でいうところの本当の「心の世界」なのであって、この違いを確認しておくことが非常に大事である。岡は「彼等西洋人は時間空間のない世界など、逆立ちしても考えられない」とくり返しいっている。
それが証拠に、彼等の聖典である旧約聖書の「創世記」第1章を読んでみると「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあって、キリスト教の天地創造は東洋でいう「心の世界」などではなく、時間空間のなかの出来事であることが、はっきりと読み取れるのである。
さて、老子の「如」であるが、岡は「如とはらしさである」といっている。「らしさ」とは第2の心の意識を通さない、いわば「雰囲気の世界」といえば良いだろうか。「雰囲気」とは知情意に別けていえば「情の世界」である。
老子は「上善は水のごとし」という言葉といい、「嬰児復帰()」やこの「如」という言葉といい、岡のいう第10識「真情の世界」が既に相当わかっていると岡はいう。だから第9識である孔子よりも老子の方を高く評価するのである。
ところで、現代に最も欠けるものは何であろうか。それは私はこの「らしさ」ではないかと思う。第1の心の物質主義の人々の目から見れば、この目には見えない「らしさ」など全く価値をもたないものらしい。だから「男が男らしく、女が女らしい」という言葉が古臭い前近代的なものとして映るのである。
しかし1つ例をとれば、我々には異常としか思えない「同性愛者」がこれほど世にはびこるのは、この「らしさ」の喪失からではないだろうか。この「
らしさ」が欠如すると世の中が狂ってくるのである。「らしさ」とは世の中を根底から支えている、それほど大切な心の要素なのである。
因に、「らしさ」とは先にいった「情」のことであって、言いかえれば現代は「人の情」が狂ってしまっているのである。
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