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2016.09.18up

岡潔講演録(20)


「1971年度京都産業大学講義録第6回」

【1】 日本がわかるヒント

 戦後の日本の非常に目につく、間違っていることの1つに、こういうことがあるんです。戦後日本に生まれて来た人達に、日本というものを全く教えない。家庭も教えない、学校も教えない、社会も教えない。だから若い世代は少しも日本というものを知らない。

 これは教えるべきだ、そう思ってたんです。ちょうどその時、荒木先生(京都産業大学総長、荒木俊馬氏)からお話があって「うちの大学へ来て、数学は教えなくてもよいから教養を教えて欲しい」そう云う申し込みがあった。それで、ちょうどよい場所が得られると思ってお引き受けして、そして日本というものを教えようと思って始めたのが ― この講義を始めたわけで、今年で3年目です。

 しかし本当は日本くらいわかりにくい国はない。わたしもよくわかってないのです。わかってないのにどうして教えられるかと云いますと、批評家の小林秀雄さんと云う人、ご存知でしょう、あの人、流石に上手い標題を打ってる。「考えるヒント」と云う。それでなるほど、それじゃ「日本がわかるヒント」と云うものを教えりゃいい、こういうので、そのヒントをあれこれと教えてきたのだが、あなた方に対しても先週迄はそうだったんです。

 ところが日本というものが昨日わかりました。だから今日からはヒントではなく、それをお話しよう、そう思ってるんです。これ迄お話したことは総て日本がわかるヒントです。役には立ちます。

(※解説1)

 私は戦後生まれであるから岡のいうことがよくわかるのであるが、当時は「日本」というイメージは非常に悪かった。これはアメリカの占領政策の影響でもあるし、共産圏のプロパガンダのせいでもあるが、日本人自身が岡のいう「心の構造」 のちがいなどには気がつかず、それらに乗っかって自らの文化伝統を捨て去ってしまったのである。そして、やっと日本にもバラ色の社会が到来したと皆が勘違いをしていたのである。

 しかし、それに疑問をいだく人達も少数ではあるがいたのである。例えば私が教育の会を作っている内田八朗や絵の会を作っている大野長一は、岡のように理学的に正確には把握できないものの、日本文化の高さや素晴らしさは十分にわかって、ご自分の周辺に警鐘を鳴らしていたのである。

 辛うじて「日本」が今日まで存続しえたのは、そういった方々のひたむきな努力のお陰だと私は感謝したい。この講義はそういった社会情勢の中で行われたものであることを、先ずはここで確認しておきたいのである。

 ただ、岡はここで「日本というものが昨日わかりました」といっているが、これが本当にわかるのは翌年の1972年である。岡はこういう発見をいくどか重ねて、次第に「日本」というものが本当にわかっていったのである。

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