okakiyoshi-800i.jpeg
2016.12.15up

岡潔講演録(21)


「1971年度京都産業大学講義録第11回」

【10】 右の内耳

 自然は生きていると云うのが本当です。無生物は生きていると云うのが本当です。無生物が生きていないものならば、無生物を主宰するなどということは意味のないことで、またその無生物が常に法則を満たすなどと云うことは説明のつけようのないことです。絶えず法則を満たすなら生きてるんですね。

 無生物と思ってるものをよく調べたら、そこに法則というものがあり、絶えず満たされてると知った時に、無生物と思ってたものはやはり生物なのだな。生物以上の生物なのだな、本当はそう思わなきゃいけない。西洋人はそれがどうしてもわからない。しかしそれ、無理もない。

 で、ものには『生』の一面と『死』の一面とがあるんですね。いつかは必ず死ぬというのが死です。不生不滅が生です。生と死が混じり合ってるんですね。

 生を知りたければ、生がよくわかりたければ、『右の内耳』に関心を集める。
  『聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く』
こうせよ、そうすると生がわかる。わかり方は意識を通さないでわかる。どこがわかってるのかと云うと後頭葉がわかってる。この一番反対なことは『見る』ということをすること。見るというのは前頭葉がするのです。そうすると必ず意識を通してわかる。このわかり方でわかるものは死だけです。

 で、夏休み中ぐらい、右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞きなさい。まあ、余計なことをする前に、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く、これをやりなさい。観音菩薩はこの1つの修行だけで不生不滅を悟ったのだと云われてるんだから。そう云いましたね。

 そしてこれをやれば、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く ― 関心を集めるというのは精神を統一すること。それがよく出来てれば、その状態において見たら、変わって見える。例えば女の人の顔を見たら、若い女の人の顔を見ると、ばあさんの顔と同じに見える。若い女性と、それからばあさんとの違いは死です。内容は、生は情緒です。情緒は、これという情緒は、ばあさんでも娘さんでも同じこと。だから同じに見える。それ、若い女性は美しく見え、ばあさんは少しも美しく見えない、これは死を見てる。

 右の内耳に関心を集めるという、それだけで別の見え方をします。そうすると成程とわかって来るからやってみなさいと云ったんだけど、勿論やらなかったでしょう。やらなかったと云う顔をしてるから(笑いながら)。やったら顔つきが変わる。しかしね、僕の云うことを少し ― 僕は哲学してるんですよ、こういう時はね。それを少しついて来るようになった。だからそういう修行をしたんじゃないでしょうが、だいぶん右の内耳に関心が集められるようになって来たのかもしれない。本当の哲学はそうしなきゃ出来ないんですね。

(※解説10)

 突然に「右の内耳」といわれても、我々にはピンとこないに違いない。それで同時期の岡の別の説明を拾ってみる。「ほろほろと散る花もまた神の春」1971年8月より。

 「右の内耳に妙観察智(みょうかんざっち)的自分を置くんです。つまり関心を集めるんです、右の内耳に。耳の働きは外耳音を聞き、中耳調和を聞き、内耳調べを聞く。その内耳です。それから右左は、右は心を聞き、左は姿を聞くんです。その右です。(途中省略)日本文化はみな内耳の調べから出ています。芭蕉の俳句にしろ、万葉の歌にしろ、古事記もそうですな。大体内耳の調べです」

 岡はこういっているのだが、今ひとつ「右と左」の根拠がわかりにくいのではないだろうか。それは古事記のイザナギノ命の「みそぎはらい」からきているのである。イザナギノ命がみそぎをすると、左の目からは天照大御神が、右の目からは天月読尊(あめのつくよみのみこと)が、鼻からはスサノオノ命が生まれたとある。

 岡は晩年、天照大御神と天月読尊の2神教を提唱するのだが、その天月読尊が「心」、天照大御神が「姿」というのである。だから右を「心」といったのである。

Back   


岡潔講演録(21)1971年度京都産業大学講義録第11回 topへ


岡潔講演録 topへ