「1971年度京都産業大学講義録第11回」
【9】 仏教よりも芭蕉の心
仏教は個人生活のみを説いて集団生活を説いてない。ところが日本民族というのは集団生活です。中国というのは国という集団生活だし、日本は日本民族という、もっとそれに時間的な拡がりのはいった ― 国と云えば空間的ですがね、空間的だけですが、国よりももっと緊密な集団生活です。だからそういうことは仏教に説かれてない。また心とか時とか云うものも説かれてない。そうすると日本人は、自分とは何かということを見るには、自分で自分を見ていかなきゃならない。
心ってどういうものかって云うと、ものには内外二面がありますね。外は形式、これに対して内を心と云う。
仏教で識と云ってるものは形式です。だから人が心だとすれば、識とはどういうものかと云えば、家に住む人ではなく人の住む家だ、心という人の住む家のことにすぎないと思うんです。
仏教は心の層を識と云うんですね。そして識についてはいろいろ書いてますが、識それ自体が心では決してない。心のいる位置を指し示すという役割はする。が、識だけでは心にはならない。
心について詳しく知ろうと思えば、そうすると是非明らめなければならない人間は芭蕉。芭蕉くらい心のことを詳しく説き明かした人はない。芭蕉及びその一門の俳句とか連句とか、そういうものを見なきゃいけないんでして、そういう俳句、連句は岩波文庫にいろいろ出ています。「芭蕉七部集」とか「芭蕉俳句集」とか「芭蕉連句集」とか、それから「奥の細道」とか、その他いろいろ出てますが、それは岩波から出てるというだけで、芭蕉及びその一門自身の残した文献ですね。それ以外に注釈書、手引きする本が一つある方がよい。良い本があれば読んだ方がよい。無ければむしろ読まん方がよいかもしれません。ところが、
『山本健吉 「芭蕉」 新潮社』
これは非常に良い参考書です。前にも云いましたが、もう一度あげておきます。
|