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2016.11.07up

岡潔講演録(22)


「1971年度京都産業大学講義録第16回」

【1】 人の心の知情意

 人の『心』ですが、心に『知』とか『情』とか『意』とか、心の要素に知、情、意があるというようなことを、まあ方々で云ったかもしれませんが、一番はっきり云ったのはギリシャですね。そしてギリシャ人は分析が好き。だからよく分けてると思いますが、この知、情、意というものについて一度考えてみましょう。

 知ですが、知は常に心に有るかと云ったら、そうではなくて、有ったり無かったりしますね。知は働いたり働かなかったりしますね。意志はもっと余計働いたり働かなかったりしますね。しかし情は常に有りますね。心がまるっきり空っぽというときはありませんね。情は常に有りますね。

 これはそう思うでしょう。思いますか? 極く大事なことなんだけど。知は有ったり無かったりする。意志も有ったり無かったりする。しかし情は常にある。そう思いますね、思いますか?

 ところが不思議なことに、西洋の『心理学者』は決してそうは思わんらしい。西洋人は非常にそうは思わんらしい。そうは思わないと云うことが非常なんです。が、東洋についても ― もしこんなふうなら情が(もと)ですね、ところが仏教は情は元だと云っていない。『知』が元だと云う。中国も知が元だと云ってる。そんなおかしなこと。

 日本はなんとも云わない。だからもちろん知が元だなどと云わない。だから知が元だと云わないのは日本だけだろう、そう云えるかもしれない。しかし決して自慢にならんのです。なんとも云わないから。情が元だとも云わないのだから。

 しかし日本人であるわたしは、情が元だ、そんなこと、わかりきってる、そう感じる。だからそれをなんとか言葉で云おうとしてる。知と意と情とを比べてみると、情は常にある。しかしあとの二つ、知とか意とかは、有ったり無かったりする。こう云ったんですが、そう思いますか?

(※解説1)

 心を知情意と別けるのは今では普通のことであるが、西洋、東洋、日本の本質をそれぞれ知情意で簡潔に表現した人など世界にいないに違いない。

 西洋の本質が「意志」であるということは、主にショウペンハウエルの著書「意志と現識としての世界」からわかってきたことであるが、岡がそういう眼で西洋を見直してみると「ギリシャ神話」からして同じだというのである。そして、それを緩和しているのが唯一「キリスト教」である、と。

 東洋の本質が「知」だということは、先にも触れた中国人の胡蘭成と岡が接してはじめて気づいたことである。そういえば「論語」の「論」という字は既に「知」を連想する言葉である。

 仏教も同じで「般若心経」の「般若」とは「知」ということであるし、仏教は非常に「智」という文字を使って、「知」を重視するのは確かである。

 岡のこういう一掴みにする認識の仕方というのは、物事をいちいち言葉に頼って認識していく「知的認識」ではなく、いわば物事をいったんミキサーにかけてジュースにし、その成分を調べるというやり方なのである。

 私はこれを「情的認識」といいたいが、このやり方以外に人類のもつ様々な文化を総合的に把握することなど不可能ではないだろうか。

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