「1971年度京都産業大学講義録第16回」
【1】 人の心の知情意
人の『心』ですが、心に『知』とか『情』とか『意』とか、心の要素に知、情、意があるというようなことを、まあ方々で云ったかもしれませんが、一番はっきり云ったのはギリシャですね。そしてギリシャ人は分析が好き。だからよく分けてると思いますが、この知、情、意というものについて一度考えてみましょう。
知ですが、知は常に心に有るかと云ったら、そうではなくて、有ったり無かったりしますね。知は働いたり働かなかったりしますね。意志はもっと余計働いたり働かなかったりしますね。しかし情は常に有りますね。心がまるっきり空っぽというときはありませんね。情は常に有りますね。
これはそう思うでしょう。思いますか? 極く大事なことなんだけど。知は有ったり無かったりする。意志も有ったり無かったりする。しかし情は常にある。そう思いますね、思いますか?
ところが不思議なことに、西洋の『心理学者』は決してそうは思わんらしい。西洋人は非常にそうは思わんらしい。そうは思わないと云うことが非常なんです。が、東洋についても ― もしこんなふうなら情が元ですね、ところが仏教は情は元だと云っていない。『知』が元だと云う。中国も知が元だと云ってる。そんなおかしなこと。
日本はなんとも云わない。だからもちろん知が元だなどと云わない。だから知が元だと云わないのは日本だけだろう、そう云えるかもしれない。しかし決して自慢にならんのです。なんとも云わないから。情が元だとも云わないのだから。
しかし日本人であるわたしは、情が元だ、そんなこと、わかりきってる、そう感じる。だからそれをなんとか言葉で云おうとしてる。知と意と情とを比べてみると、情は常にある。しかしあとの二つ、知とか意とかは、有ったり無かったりする。こう云ったんですが、そう思いますか?
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