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2016.11.07up

岡潔講演録(22)


「1971年度京都産業大学講義録第16回」

【2】 本当の個性とは

 個性が大事、個性が大事と今の教育云います。しかし個性と云うのはひと一人一人違うと云うことでしょう。人の個人差ですね、個人の特徴ですね。

 何度も云いました通り、わたしならわたしと云うのは、あなた方も同じですが、大宇宙という木の、人類という枝の、日本人という小枝についている一枚の葉のようなもの。わたしと云うのは、このからだとか、この心、心理学の対象である心、そういうのをわたしと云うのです。それはこういうものに付いている一枚の葉のようなもの。いつもこう云ってますね。

 個性と云ってるのは、人類の一人一人がみな違うといってるんでしょう。そうですね。その前に、人類であるということがあるでしょう。人類であると云うことは、やはり個性のようなもので、他の動物あるいは植物であるということとは違ってるでしょう。そうすると個性、個性と云ってるのは、大きな個性の小さな枝の、まあこの個性ですね。人類であるというのもこっちで決まる。大宇宙の枝の人類であると、こんなふうになって来て、そして葉があるんでしょう。個性って云うのは、本当はここにある。

 大宇宙という木がある、人類という枝がある、日本人という小枝の葉であるというのが我々でしょう。そしてここに個性があると云ってるんでしょう。その個性は染色体でここから伝わると云ってるんでしょう。そしたらこの残りの部分はどうなる?何が表わす?

 人は個性を持つ前に、人の心というものを持ってる。これはどうして伝わる?人の心あってこその個性でしょう。人の心なしに、だしぬけに個性有るということは有り得ませんね。だいたい個性とはどんなものか、わかりゃしない。どういう個性が尊ぶべきものか、わかりゃしない。これが今の自然科学なん。個性の尊ぶべきを知って、人の心のより尊ぶべきを知らない。

(※解説2)

 私が大学生の頃が丁度この1971年であるが、ここで岡がいうように教育界では「個性が大事、個性が大事」とよくいったものである。しかし、その個性が何であるかをよくよく考えてみれば、要するにそれはアメリカの影響を受けた「自己主張」のことであった。

 つまり「第1の心」の持つ個性を個性といっていたのである。人との競争に勝つとか、人前で堂々と自分の意見を主張するとか、人のできない奇抜なことをやってみせるとか、そういうことが個性だといっていたのである。

 しかし本当は、そのような「第1の心」を抑止して非常に謙虚になった上でも、自然ににじみ出てくる「個性」というものがあるのではないだろうか。かえって「第1の心」を抑止すればするほど、「真の個性」は出てきやすいのではないだろうか。

 例えば私の絵の会の大野長一は、日頃は消え入るばかりに謙虚であった。会合の時でもそうであって、大野の方に私が話の水を向けなければ決して口を開こうとしなかった。しかし、いったん人々が大野に耳を傾ける講演ともなれば、ツバキをとばしながら自らの思い、自らの理想を語ったものである。

 大野は生涯に1千点を越える絵を残したのであるが、それらの絵にも並の作家では真似できない、深々と澄みきった「情緒の世界」を表現した、「真の個性」がにじみ出ているのではないかと私は思うのである。

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