okakiyoshi-800i.jpeg
2016.11.07up

岡潔講演録(22)


「1971年度京都産業大学講義録第16回」

【3】 大脳生理学の無知

 こんなこと、はっきり調べて行くには、西洋人は二つの過ちをおかしてる。一つは、目に見えないものは無いと決めてしまっている。もう一つは、大脳前頭葉は操るべきものであって、前頭葉に引きずられるべきものではないということを忘れてしまってる。忘れてしまってって、始めから知らないんですけど。

 だから自に見えないものは無いと思うことをやめて、大脳前頭葉を操って調べ直さなきゃいけない。これは大勢の人が永くかかってやるべきことで、今こういうことをやっているのはわたし一人。とても詳しくわかりゃしない。だけど大勢の人が永くかかって調べ直すなら、よほどわかって来るでしょう。

 ともかく情というものは、人体に最初現われるのは頭頂葉に違いない。それが後頭葉を通って、そして前頭葉に働きかけるらしい。その時その経路として側頭葉を通るのか通らないのか、もっとよく調べてみなければわからない。こう云うんです。

 で、情が前頭葉に働きかける。そうすると前頭葉が動きだすんです。これはよくわかる。わたし前頭葉のことはかなりよく知ってる。なぜかと云うと、数学の研究を永くやってた。それで前頭葉という道具を充分使った。だからその前頭葉という機械の構造はかなりわかってる。

 こんなもの、解剖したって勿論わかりゃしませんし、それから心理学的、大脳生理学的に観察したところであんまりわからない、働かしてみなければ。大体あんまり働いていない時を観察するし、自分で働かせてるのと、(ひと)が働かせて働いているのを端から見るのとでは大分わかり方が違う。これは自分で使ってみなきやわからん。それを使いもしないで、あれこれ云ってるのが大脳生理学者、心理学者です。何もわかってやしない。随分間違ったことを云ってる。が、これも困る。

(※解説3)

 今まで私は岡の大脳生理を折に触れてご紹介してきたのだが、岡の大脳生理と当時流行の大脳生理学との次元の違いはどこからくるか。ここに岡自らの証言が語られている。

 先ず「前頭葉に引きずられるのではなく、前頭葉を操って調べ直さなければならない」といっている。前頭葉には「自我」が宿っていて邪性(自己性)と妄性(時空性)とがあるから、「第1の心」の西洋人はその中でしか理性が働かない。つまり「馬車馬式」にしか理性できないと岡はいうのである。特にこれが、自然科学その他の学問の弊害を生んだのだろう。

 しかし、その前頭葉を出離れて、邪性と妄性のとれている「第2の心」が宿る頭頂葉から、前頭葉の理性を操るべきだと岡はいうのであるが、それは当分(多分10万年)、西洋人には無理であって、たとえ下手ながらも「前頭葉を操る」ことができるはずの日本人が、何とかしてそれを実現していかなければならないのである。

 しかし、「今こういうことをやっているのはわたし1人」と岡自身がいっているように、この大脳生理の学説だけを見ても、その世界観に雲泥の差があるのは明らかであって、なんとか早く日本の知識人にも岡の大脳生理に目を向けてもらいたいものである。

 また「解剖したって勿論わかりゃしませんし、大脳生理学的に観察したところであんまりわからない」といっているが、これが現在の大脳生理学の限界である。更にまた「大脳生理学者、心理学者は何もわかってやしない。随分間違ったことを云ってる」と畳みかけるのだが、今の大脳生理学の現状からすると私は「ごもっともです」と頭を下げるしかないのである。

Back    Next


岡潔講演録(22)1971年度京都産業大学講義録第16回 topへ


岡潔講演録 topへ