(※解説4)
ここからは岡が数学上の発見と心のメカニズムについて語っていくところであるが、この1971年になって初めて、そのメカニズムの根底が岡自身にもハッキリとわかってきたようである。
数学の研究とは詰まるところ「そういうものX」を捜し求めることであるというのだが、「そういうものX」とは口に出してはいえないが、しかし何となくわかっているものという意味であるという。
その辺のところを道元禅師は「正法眼蔵」の中の1章「恁麼」で次のようにいっていると岡はいう。「恁麼」とはここでいう「そういうものX」という意味である。
「いわゆる恁麼事をえんとおもふは、すべからく恁麼人なるべし、すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん」
つまり、人は全て「そういうものX」を既に知っている存在だからこそ、「そういうものX」を捜し求めようとするのである。だから、無闇に心配する必要はない、という意味らしい。
人は生まれた時から、否生まれる前から宇宙の全てを既に知っているのである。だが、それは無自覚的に知っているのであって、いわゆる「考える」とはその「無自覚」を「自覚」に変えていく操作なのである。
無論、これが岡の説く「大脳前頭葉」の本来の理想的な働きなのであるが、岡は人類に先駆けてその無自覚の世界を、桁違いのスケールで自覚の世界に変えていった人なのである。
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