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2016.11.07up

岡潔講演録(22)


「1971年度京都産業大学講義録第16回」

【4】 そういうもの「X」

 情が人に伝わって、そしてそれが前頭葉に働きかけるから前頭葉が動きだすのだ、それはそう云えると思う。なぜかと云いますと、研究の始めですね、例えば日曜日、今日一日は僕の時間であると思って、そしてその日の研究を始めようと思う。そうすると、

 『ほのぼのと面白くなって来る』

 ほのぼのと面白くなって来るから研究をするんです。研究に習熟しない間はそうじゃないかもしれない。しかし充分研究というものが出来るようになると、誰でもこうなる。わたしがこうなったんだから日本人なら誰でもそうなると思う。西洋人は知らない。ほのぼのと面白くなるから自ずからその方面に前頭葉を働かすので、なにくそと思って頑張るんじゃない。

 これが研究の発端ですが、研究の途中、中味はどんなふうであるかと云うと、一口に云うと、

 『そう云うものがどこかにないだろうか』

 と捜し求める。ある研究の場合なんか、そういうものがどこかに無いだろうかと捜し求めるという状態になって『七年』ぐらい。そうしてついに発見されたわけ。

 そういうものというのは『X』ですね。Xがどういうものかわかってるんじゃない。わかってたら何も捜し求めることはない。まあ、他のものならわかってても捜し求めるということ、あるかもしれませんが、数学ですから。わかってたらすなわち有ったので、別に捜し求めることはない。わからんから捜し求める。

(※解説4)

 ここからは岡が数学上の発見と心のメカニズムについて語っていくところであるが、この1971年になって初めて、そのメカニズムの根底が岡自身にもハッキリとわかってきたようである。

 数学の研究とは詰まるところ「そういうものX」を捜し求めることであるというのだが、「そういうものX」とは口に出してはいえないが、しかし何となくわかっているものという意味であるという。

 その辺のところを道元禅師は「正法眼蔵」の中の1章「恁麼(いんも)」で次のようにいっていると岡はいう。「恁麼」とはここでいう「そういうものX」という意味である。

 「いわゆる恁麼事をえんとおもふは、すべからく恁麼人なるべし、すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん」

 つまり、人は全て「そういうものX」を既に知っている存在だからこそ、「そういうものX」を捜し求めようとするのである。だから、無闇に心配する必要はない、という意味らしい。

 人は生まれた時から、否生まれる前から宇宙の全てを既に知っているのである。だが、それは無自覚的に知っているのであって、いわゆる「考える」とはその「無自覚」を「自覚」に変えていく操作なのである。

 無論、これが岡の説く「大脳前頭葉」の本来の理想的な働きなのであるが、岡は人類に先駆けてその無自覚の世界を、桁違いのスケールで自覚の世界に変えていった人なのである。

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