「1971年度京都産業大学講義録第16回」
【5】 情的にわかる、知的にわかる
これが創造の形式ですね。数学における『創造』の形式。不思議なのは、そういうものとは一体なんだろう。全然わかっていなかったら、そういうものと云ったってナンセンスでしょう。わかってたら捜し求めるということはないでしょう。数学ですから、わかったということはすなわち見つかったと云うこと。方々実際捜しますがね。方々捜すのは、そういうところを調べるのが、Xがこういうものだとわかるよすがになるだろうかと思うから捜すので、だからわからんものXがわかったら、数学上の創造が出来たんです。
が、全然わからんものだったら、それを捜し求めると云うより、関心をXに集めると云った方がよいでしょう。わからんものに関心を集めるということはナンセンスです。出来やしません。これはね、そういうものと云う時には『情的にわかってる』。発見されると云うのは、それが『知的にわかる』。
だから情的にわかると云うのは、普通わかるというのは知的にわかると云う意味ですが、その基礎に、情的にわかると云うことがある。わからなくてわかる、わかってわからない。わかつてわからないと云うのは、わからなくてわかる。しかしそれを言葉に云うこともなにも出来ないから、わかってわからない。そういうわかり方をする。そういうわかり方を人がするから創造ということが有り得る。これが情というもの、あるいはその情を心と云ってもよろしい。
人と人と話し合うと話が通じる、あるいは、よく話し合えば心が通じる、そう云いますし、実際そう思う。なぜそんなことが出来るか、始めから情が通じ合ってるから。それを自分の目でみてもらわなければ。情が通じ合ってるのでなければ、つまり心が始めから通じ合ってるのでなければ、とても言葉を操って心の一端をわかり合うなどということは出来ないことです。言葉は極く粗いものらしい。心というのは非常にきめの細かいものです。
心がわかり合うという時のわかるは、口では云えないわかる、意識を通して見ることの出来ないわかるです。そういう働きを持った情というものが常にある。
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