「1971年度京都産業大学講義録第16回」
【6】 情と創造
西洋人には創造とは一口に云ったらどんなものかなどということは到底考えられないし、考えようともしないでしょうが、日本人なら一度やればわかるはず。わたしがわかったんだからみんなわかると思う。こういうものです。
創造という働きの始めに働くのも情です。それから中味も情です。情というのは不思議なもの。わからんながらわかる。そういう働き持ってる。非常によくわかるんですね、情的にわかるのは非常に広くわかる。それを知的にわかるように、知的に表わしてるだけですね。
数学とは限らず、学問は研究によって出来て行くんでしょう。優れた人がいろんなことを云うのを集めて行って、学問あるいは思想、文化となる。その時、情的にわかってるものを知的に云い表わす。そういう形で文化は出来て行くんですね。
芸術も入れると、知的に云い表わすというだけじゃありませんし、芸術的表現と云っても、言葉ではありませんが矢張り知的表現でしょう。情的にわかってるものを知的に表現する、それが文化というもの。その時の働きが創造というもの。
そういうことが有り得るのは、情という不思議なものが常にあるからです。情はなぜわかるのか知りませんが、情の本質的な働きはわかるということらしい。わからんものは無い、わけなしにわかる。そういう働きが有るのでなければ、知的にわかるということは有り得ないでしょう。
ともかく、西洋人は情ということを知らない。東洋人もあまりよく知ってるとは云えない。だから情というものについて少しお話しましょう。
『情』と云ってもよく『心』と云ってもよい。心は情であって、知とか意とかは、その情という云わば水に立つ波のようなもの。現象ですね。こういう情というものが常にある。いくら調べても、心理学的に調べても、生理学的に調べても、情というものが常にあるのだということがわからんらしい。
どこから話して行きましょうか。常に大脳前頭葉を操るということが大事であるということを知らなきゃいけない。
|